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高校野球トピックス

今夏勇退の名将・渡辺元智監督の「座右の銘」

 

松坂を擁した1998年に春夏連覇
高校球界の名将が下した決断


渡辺監督は1965年年春からコーチとしてチームに携わり、67年秋に監督就任。以来、春3度、夏2度の甲子園制覇を遂げた。後任は平田徹部長[右端]が名将の魂を継承する



「平成の怪物」と呼ばれた松坂大輔(現ソフトバンク)ら、50人以上をプロの世界に送り込んだ高校野球界の名将が、ユニフォームを脱ぐ。横浜高・渡辺元智監督が今夏限りでの退任を学校側に申し入れ、受理された。理由は体調面の悪化。「4月下旬に自分で決めた。体力に自信がなくなった。選手に迷惑をかけてしまう」と引き際を決断せざるを得なかった。

 27度の甲子園出場で帝京高・前田三夫監督と並ぶ歴代3位の通算51勝をマーク。春夏合わせ5度の日本一へ導いた。1965年に20歳で母校・横浜高のコーチになり、67年秋から監督に就任。半世紀にわたって球児を指導してきた。就任当時の神奈川は法政二高や東海大相模高が全盛の時代。特に東海大相模高を率いる原貢監督には、何度も甲子園出場を阻まれた。

 それでも、「日本一厳しい練習」で選手を鍛え上げ、73年センバツでエース・永川永植を擁し初出場初優勝。80年は愛甲猛を柱に夏の甲子園初制覇。98年には松坂を中心に能力の高い選手がそろい、史上5校目の春夏連覇を達成した。公式戦は前年秋の新チーム結成から無敗の44連勝だった。06年センバツでは3度目の優勝。70、80、90、2000年代と各年代で日本一に導いたのは、渡辺監督ただ一人の偉業だ。

 横浜高では外野手だった。神奈川大では内野に転向した際に右肩を痛め野球を断念した。大学を中退し一般就職したが、すぐに母校から声がかかりコーチに就任した。76年から関東学院大に通い、教員免許を取得。教壇に立つことで高校野球への見方が指導者から教育者のものになった。

「時代とともに、指導方法は変わらないといけない」というモットーを掲げ、最近では携帯電話を駆使したメールなどで選手とコミュニケーションを図った。「富士山に登る第一歩。三笠山に登る第一歩。同じ一歩でも覚悟が違う。目標がその日その日を支配する」。自身の座右の銘は、在籍した選手に伝え続けた。昨年に退任した小倉清一郎前部長とのコンビで毎年のようにプロの世界に選手を送り込んできた。「横浜高校で学んだ3年間は、どこよりも濃い。プロに入ってから、野球をやる上で困ったことがなかった」と話したOBもいた。現役でプレーを続けている松坂は「(退任を聞いた際は)ショックが大きくて言葉が出てこなかった」と話し、ロッテ涌井秀章は「プロに導いてくれた一生の恩人」と感謝した。

 89年には胃かいようで長期入院し、2年間部長を務めた時もあった。04年には脳梗塞で倒れ、近年はストレスから腰痛やメニエル症候群も発症した。「もう一度、甲子園で春夏連覇できるチームをつくる」と意気込んでいたが、腰痛が悪化しノックを打つことも困難になった。夏以後は平田徹部長(32歳)に指揮を任せ、自身は終身名誉監督として指導を続ける。名将が挑む最後の夏。神奈川大会は7月11日に開幕する。



PROFILE
わたなべ・もとのり●1944年11月3日生まれ。神奈川県出身。横浜高から神奈川大に進むが、肩の故障で野球を断念して中退。65年春に母校のコーチ、67年秋、23歳で監督就任。その後、教員免許取得のため関東学院大に通った。73年に初めてセンバツに導くと初優勝、その後も80年夏、98年春夏、06年春と5回の甲子園制覇を遂げ、70〜00年代のすべてに優勝がある唯一の監督。甲子園通算51勝(22敗)は歴代3位タイ。
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