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高校野球100年特別企画

荒木大輔が巡る「やまびこ打線」の真実

 

池田高校グラウンド(校庭)のマウンドでポーズ。背後には山々が広がる。大自然に囲まれた環境にある


1982年夏―。甲子園は“大ちゃんフィーバー”の最終章を迎えていた。1年夏から5季連続での甲子園出場となった早実・荒木大輔。順当に勝ち進み、準々決勝へコマを進め、悲願の全国制覇まであと3勝。ここでエースに立ちはだかったのが、蔦文也監督率いる池田高(徳島)だった。“阿波の攻めダルマ”が指揮した自慢の攻撃陣が初回から火を噴き、百戦錬磨の背番号1も、マウンド上でぼう然自失。2対14の大敗は18歳の記憶に深く刻まれる、最後の一戦となった。衝撃の夏から33年―。「四国のへそ」と呼ばれる山あいの町(三好市池田町)を初めて訪ねて、「やまびこ打線」のルーツを探った。
取材・文=岡本朋祐 写真=早浪章弘

32年ぶりの再会で意気投合


JR阿波池田駅から徒歩約5分、校歌の歌詞冒頭にある「上野が丘」に池田高はあり、池田幼稚園から池田小、池田中が「学園通り」に並んでいる



 プロアマ雪解け。荒木氏は昨年12月に学生野球資格回復の研修を受け、今年1月に適性認定者となった。高校野球の現場を指導(取材)できる立場となり、母校・早実の次に行きたいチームがあった。

 徳島県立池田高等学校。3年夏の甲子園準々決勝で敗退した相手だ。18歳の記憶に深く刻まれた一戦。昨年12月には東京都内で早実5人、池田7人の当時のメンバーが集まり食事会が初めて開かれた。

「3年夏の甲子園が終わった後の高校ジャパン(日韓交流戦)で、池田の優勝メンバーの何人かと大阪で過ごしました。約1週間の共同生活の中で早実と同じ雰囲気と言いますか、『一緒に戦いたい』仲間意識が芽生えたんです。32年ぶりに再会しても変わらなかった。当然、あの試合の話になるんですが、都会で生活した我々からすれば、彼らはどんな環境で過ごしていたのか興味があったんです」

 1980年代の甲子園を彩った伝説のチームの一つが、池田高だ。82年夏、83年春に連覇を遂げた同校OBの水野雄仁氏(当時2年、元巨人)は、インパクトを与えた理由を語っていた。

「田舎の公立校、名物監督がいて、しかも強い。人気の出る要素がそろっていたのではないでしょうか」

“阿波の攻めダルマ”と呼ばれた故・蔦文也監督(元東急)が率いて、74年春のセンバツは部員11人の“さわやかイレブン”で準優勝。79年夏も現監督の岡田康志氏が主将で準優勝。当時は徳島全域から優秀な選手が集まった。特に右腕・畠山準(元南海、横浜) は誰もが知るスター選手で80年4月、県内中学の四番打者がこぞって入学。ラストチャンスとなった82年夏、3年ぶりの出場を手にする。

正門を入り、グラウンドへ向かう途中に故・蔦監督(2001年4月28日逝去)の碑がある。「山あいの町の子供たちに一度でいいから大海(甲子園)を見せてやりたかったんじゃ」。甲子園通算37勝の名将の名言である



 82年夏の甲子園。最大の話題は早実・荒木大輔だった。1年生エースとして出場した80年夏、6試合4完封で準優勝の原動力。完成度高い投球と、端正なマスクで多くの支持を集め空前の“大ちゃんフィーバー”を巻き起こす。

早実のエースとして甲子園で力投する荒木氏。1年夏からフル出場となった5季連続の3年夏は、記憶に深く刻まれる最後の高校野球となった



 以来、2年春夏、3年春、そして3年夏と5季連続フル出場。準々決勝で池田高との対戦が決まった荒木は、相手打線を警戒していた。池田はウエート・トレーニングをいち早く取り入れて、体がとにかくゴツイ。しかも、バットの振りが違う。

「ユニフォームがパツンパツンで、スイングスピードがものすごい。すごく、恐かった。対戦が決まった瞬間からイヤな感じがしていました」

 静岡高(静岡)との1回戦は5得点、日大二高(西東京)との2回戦は4得点、都城高(宮崎)との3回戦は5得点と、決して圧倒した内容ではなかった。しかし、荒木は一流の野球人にしか分からない“空気”を感じていた。

 一方、池田高にとっても早実は「勝てるわけがないだろう」と、前夜までに常宿だった網引旅館の荷物をまとめ、お土産も一通り購入していたという・・・

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