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巨人軍監督80年の歴史を振り返る

 

巨人の監督は、高橋由伸新監督で18代目(14人目)となる。ここまでの巨人監督の歴史80年を振り返ると何が見えてくるだろうか。やはり、最初のプロ野球チームらしく、いまの日本のプロ野球の「形」を作る仕事を成し遂げた監督が多いのだが、そこにはいろいろ問題もあった。よくも悪くもプロ野球を「支配」してきた巨人の監督たちの姿を概観して高橋新監督誕生の必然性を示してみたい。
文=大内隆雄 写真=BBM

由伸新監督の就任は「本卦がえり」。初代・三宅監督は、アメリカ野球で武装した慶応野球で骨格作る




 高橋由伸新監督の誕生は、巨人監督史上では、いわば「本卦がえり」のようなものである。

 巨人(大日本東京野球倶楽部)がスタートしたのは、1934年だが、翌35年2月に同倶楽部は、渡米遠征を挙行することになった。この渡米遠征一行の監督が三宅大輔だった。で、三宅が巨人初代監督となった。三宅から数えて18代目(14人目)の監督が、高橋新監督ということになる。

 三宅は、25年秋に中断していた早慶戦が復活したときの慶大監督。慶大時代は、大正5、6年(16、17年)のチームの主将。2年続けての主将は、その能力が際立っていたからだろう。当時はまだ四大学リーグ(早慶明法)の時代。しかも、早慶は戦わずという極めて変則的なリーグ戦を行っていた。

 こういう時代の早慶選手は、何をしていたかというと、アメリカの野球知識をどん欲に吸収することが、“仕事”だった。三宅は、ニューヨーク・ジャイアンツの遊撃手だったアーサー・シェーファーを招き、その指導を集中的に受けてメジャーの技と理論を習得した。

 慶大は11年に第1回、14年に第2回渡米遠征を行っているが、三宅はいずれにも参加。本場で80試合以上をこなした経験は大きかった。

 こういう経歴があるから復活早慶戦で監督を務め、日本にプロ野球が誕生すれば、すぐに監督要請を受けたのだった。

 そういうワケで、巨人は、アメリカ野球で“武装”した慶大野球部出身の監督によって、その骨格が形づくられたのだった。

 だから慶大主将だった高橋由伸が、巨人監督に就任したのは「本卦がえり」なのである。昨年は、プロ野球が誕生して80周年だったが、来年16年は、プロ野球のペナントレースが始まって80周年。この記念すべき年に、巨人の監督に高橋が就任したというのは巨人には意義深いことなのだ。

 さて、128日間で109試合をこなすハードな旅から帰ると(この遠征中に「東京ジャイアンツ」のニックネームが決まった)、三宅にはクビの運命が待っていた。巨人は、帰国後国内遠征を行ったのだが、アマチュアのチーム(実業団チーム)に3敗もしてしまいアメリカ帰りの面目丸つぶれ。三宅は11月16日に解任され、浅沼誉夫監督に交代した。こちらは早大OBで、出身が立教中学というややこしい人だったが、あまり人望がなく、36年の第2回渡米遠征を挙行する前から主力選手たちと衝突。帰国すると球団は、喧嘩両成敗のような形で浅沼を総監督に棚上げし、スター選手の水原茂(慶大OB)と田部武雄(明大OB)を免職退社処分にした。後任の監督には、前年、巨人相手に2勝した東京鉄道局チームの監督、藤本定義(早大OB)を引っ張ってきた。わずか、1年ちょっとの間に、監督が3人代わるというドタバタ。日本のプロ野球チームは、スタートから監督問題でゴタゴタするという宿命を背負ってしまった。

巨人初代監督の三宅大輔(右)。大日本東京野球倶楽部の第1、2回の渡米遠征に臨んだ



3代目・藤本監督でようやく安定。アメリカ帰りの選手たちの鼻をへし折り、徹底的に鍛え直す!


 しかし、3代目の藤本は、しっかりしたチーム再建策を持った人だった。何かというとアメリカ帰りを鼻にかける選手たちを徹底的に鍛え直し、プロ野球第1号球団にふさわしい強チームに作り直したのである。日が沈むまでの猛練習。宿舎では絶対禁酒。遠征先の宿の帳場には、「絶対に選手に金を貸すな」と釘を刺した。そして、あの血ヘドを吐く選手も出た36年9月の茂林寺の猛練習。これは、三原脩(早大OB)という知恵者の手を借りた。三原は巨人契約第1号選手だが、兵役のためすぐ退社していた。その三原を巨人に戻した(第2回渡米遠征後退社した水原も11月に復帰。ここに、ビッグネームはすべて出そろったワケだ)。

 三原の立てたスケジュールで行われたこのキャンプで巨人はよみがえった。巨人は、タイガース(阪神)との年度優勝決定戦(洲崎球場)に2勝1敗で勝ち、初の「日本一」となった。エースの沢村栄治は3連投して2勝。この“洲崎決戦”の第3戦の優勝決定シーンを撮影したフィルムが今年見つかり、NHKが放映したのは記憶に新しい。藤本は、沢村と次のエース、スタルヒンをかわいがり、エース教育を施した。藤本には戦後の阪神監督時代、小山正明村山実の2本柱の先発ローテーションをシーズン前に組み立て、無理使いせずそれを崩さなかったという“伝説”があるが、ローテーションは多少崩れたとしても、村山に言わせると「これは、私に、監督には、しっかりした1年の計画があるんや、という安心感を与えた」。この長期ローテーションという考えも、まず巨人の監督の頭脳から生まれたのだった。

 藤本巨人は、37、38年とタイガースとの年度優勝決定戦で連敗してしまった。特に38年は、4連敗(37年からワールド・シリーズをマネて7回戦制に)の屈辱。これは藤本よりもこの年入団のルーキーたちにショックを与えた。川上哲治千葉茂は「これは大変なことになった。巨人はどうなるんだ」と打ちひしがれたという。しかし、39年からペナントレースが春秋の2シーズン制から1シーズン制に改められたことが巨人を救った。あくまでも長期的な視野に立つ藤本監督は、この方がやりやすかった。阪急に強いスタルヒンは、阪急戦に集中登板させ、39年には何と10勝無敗(巨人は阪急に11勝1敗)。勝てるところからは徹底的に勝ち星を絞り取る――のちの水原監督、川上監督のこのエゲツないまでの(?)やり方は、すでに藤本監督がやっていたのである。

 藤本監督は、38年秋のシーズンから5連覇。「戦争が始まっているのに、野球の監督などやっている場合ではない」と、前年から固めていた辞任の意思を42年シーズン終了後に通して退団した。
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