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子どもの“個人練習”をサポートする元ロッテ・小林亮寛

子どもたちの“個人練習”をサポートする元ロッテ・小林亮寛のセカンドキャリア

 

日本での実績はゼロに等しい。それでも1998年のロッテ入団から14年の現役引退までの間、国内外6カ国9球団(トレーニング参加、テスト参加等を含めれば7カ国10球団以上)で野球を職業とし、求められる仕事を果たしてきた。世界を渡り歩いた小林亮寛氏が次なるキャリアに選んだのが、日本の未来を担う子どもたちへのサポートだった。
取材・文=坂本匠、写真= CPBL 提供、BBM

現役時代の希有なキャリア


 複雑なキャリアを確認するだけで、取材時間の多くを割くことになってしまった。「自己紹介するだけでも大変なんです(笑)」。地元・福岡県福岡市に15年1月、『コビーズベースボールワークアウトスタジオ&スクール』をオープンさせた小林亮寛が、快活に笑う。間もなく開業から1年。「現役時代にこんな施設があったらいいのに、と思っていた」を形にした、いわば“個人練習をサポートする施設”では、この日も台湾代表3選手、春からBCリーガーとなる青年に、健康づくりのための一般主婦が交じって思い思いにトレーニングをするなど、活気あふれる空間が広がっている。そんな彼らの様子を温かく見つめる小林については、少し説明が必要だろう。

 98年に入団したロッテでは、在籍5年間で一軍昇格なし。02年で戦力外を言い渡されているから、日本での実績はない。しかし、ここからが興味深い。合同トライアウトを経て中日に声を掛けられるも、選手枠の関係で、「ひとまず打撃投手」を務めていたが、監督交代などでうやむやのまま3年を過ごすことに。その後、トライアウトを再受験すると、直球が141キロを計測。復帰への意欲が沸き、プレーできる環境を探して渡米を決断した。06年は紆余曲折を経て、アメリカの独立リーグに属するカルガリー・ヴァイパーズ(カナダ)へ。カナダだったのは「ビザの関係です。いわば抜け道」で、最低年俸で契約するため19歳(当時27歳)で登録されていることは、「あとで知った(苦笑)」のだとか。

 ここでは3カ月半で40試合に登板し自信をつけた一方、その後の現役生活、そして現在に生かされる貴重な出会いにも恵まれる。

「キューバからフロリダへ、ボートで亡命した選手が同部屋でした。彼は月800ドルの給料のうち、700ドルを家族に仕送りしていましたが、カットされてしまうんです。でも『コビー、これが野球だ』って言うんですよ。『家族のために、別のチームではい上がるから』って。野球を仕事にする、家族を養うって、こういうことだと気付かされました」

 以降、四国IL、台湾、メキシコ、韓国などで自らを売り込み、求められた場所で仕事に全力を尽くした。14年3月26日に34歳で引退するまで、16年間で6カ国9球団を渡り歩き、選手、裏方、“外国人選手”としてプレー。日本人では希有なキャリアの持ち主ではないか。

2008、09年にプレーした台湾の兄弟エレファンツでは2年で19勝を挙げ、08年はゴールデン・グラブ賞に当たる金手套を受賞した



「土台の部分をサポートしていきたい」


 引退後、すぐにスタジオ開設を目指したのも、「所属先のない僕には練習場所の確保が大変だった」経験があったから。そして何より・・・

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