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黄金時代を構築 慶大元監督・前田祐吉氏が死去

 

1960年秋の「早慶6連戦」を率い在任2期18年で黄金時代を構築


29歳で慶大監督に就任した1960年、秋には伝説の名勝負「早慶6連戦」を率いた。優勝決定戦2試合引き分けの後に、早大に逆転優勝を許した



「僕はね、一人でもう階段を上れないから、神宮球場には行けないんですよ。何度も手術をして、こんなに痩せ細ってしまった。でも逆に自覚症状もないうちから手術したおかげで、悪くならずに生きているんです」

 そう言って笑っていたのが昨年8月のことだ。取材テーマは1960年秋の早慶6連戦(小社刊「死闘 早慶6連戦の深層」)。「何度も負けているからその話は嫌いなんです」と苦笑しながらも、数時間にわたって胸の内を包み隠さずに明かしてくれた。

 前田祐吉氏は戦後に高知の旧制・城東中(現高知追手前高)へ復学。エースとしてセンバツ4強などを経験し「エンジョイ・ベースボール」の精神に胸を打たれ慶大へ進学する。

「日本の野球って『エンジョイ』を恥じる風潮があるけど、野球はエンジョイして初めてうまくなるもの。うまくなるから強くなり、試合に勝てるようになるから楽しくなる。そういう循環だし、結局エンジョイしなければ勝てないと思うんです」

 前田氏はそう言い切った。卒業後は社会人野球のニッポンビール(現サッポロビール)で監督まで務め、60年に慶大監督へと就任。オンとオフを使い分けるのが前田流だった。「瞬間湯沸かし器」と形容される情熱も持ちながら、早慶6連戦に敗戦後の納会で「負けたのは私の責任」と素直に頭を下げる潔さ。近年に著書『私の発明ノート』を出版するほどのアイディアマンでもあり、監督を務めた2期計18年間でリーグ優勝8度、85年秋には10勝無敗で優勝に導いた。

 そんな輝かしい実績を残してもなお、「発明は僕のライフワーク。それを生かして人の命を救うのが目標です」と力強く語る姿に、貪欲な80代だなぁと思ったものだ。そして、取材はこんな言葉で締め括られた。

「慶應で野球をやっていて良かったと思うことはね、若い人が今でもたくさん僕の下に来てくれるんですよ。それがすごく楽しみで……。今年の春には息子が僕を抱きかかえてくれたので、久しぶりにリーグ戦を見ることができました。でも、まだまだ80半ばでよろけていたらダメだね(笑)。この秋にも入院して心臓ペースメーカーの電池を取り替える手術をするんですけど、もう少し元気になって神宮に行かないとなぁ」

 秋にも2度、リーグ戦を観戦したという。だが年末に体調を崩し、1月7日の午後10時47分。名将は85歳で天国へと旅立っていった。

 取材後に帰り支度をしていたとき、「これ、持っていってください」と奥さんから手土産をいただいた。その傍らで前田氏は杖をつき、壁に手を掛けて何とか自分の体を支えながら、「今日はありがとう。またいつでも連絡してください」と笑顔で見送ってくれた。あのときに感じた温かさは、今も忘れられない。合掌――。(文=中里浩章)

82年春から再び監督に就任すると、85年秋に13年ぶりのリーグ優勝。10勝無敗[1分け]でストッキングに2本目の白ラインを入れている。91年には春秋連覇を達成



PROFILE
まえだ・ゆうきち●1930年9月22日生まれ。高知県出身。城東中(現高知追手前高)ではエースとして46年夏、47年春の甲子園出場。49年に慶大入学後は野手に転向し、4年間でリーグ優勝3回。サッポロビールを経て60〜65年、82〜93年まで監督を務め、在任18年36季で8度のリーグ制覇、大学選手権、神宮大会で各2回の優勝。96年アトランタ五輪まで日本代表の強化本部長を務め、その後はアジア野球連盟事務局長として日本野球の国際化に貢献した。2016年1月7日、85歳で死去。
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