1969〜70年にかけ発覚した黒い霧事件。中央はそのカギを握る元西鉄・永易将之
終戦後の賭け屋との騒動はすでに70年ほど前ということもあり、ヤクザ映画のような大げさな逸話も多い。球界はこの危機を一丸となってはねのけ、繁栄への道を進むことになる。 食糧難の時代に活性化
八百長行為がプロ野球を浸食し始めたのは、第二次大戦中だったと言われる。関西球団が中心で、特に南海、阪急をターゲットに賭け屋が暗躍。選手に“わざと負ける”プレーを求めた。それが一気に表面化したのが終戦直後、プロ野球が再開した1946年だ。やむを得まい。それまで正しいと言われたものがすべてひっくり返り、日本社会、そして人の心も乱れに乱れていた時代だ。
プロ野球の試合では賭けが横行し、西宮球場のライトスタンドの一角で賭け屋と客が堂々とやり取りをしている姿もよく見られたという。ただ、当時の日本人は賭けごとに対する心理的ハードルが今よりかなり低く、賭博の存在自体が大きな問題になっていたわけではない。本当に深刻な問題は、選手の八百長行為だった。
40年に南海入りも1年で応召。戦後プレーイングマネジャーとして南海(同年は近畿グレートリング)に復帰した
鶴岡一人(当時は山本一人)は、賭け屋と徹底的に闘った指揮官の一人である。
鶴岡が八百長の雰囲気を感じたのは46年の夏ごろだったという。
「おかしな雰囲気やプレーが目につき出した。それで八百長をやるのは投手、二塁、センターの中心線が多いという話があり、急きょポジションをサードからファーストに変えた。そのほうが選手を観察しやすいしね」
賭け屋は選手を買収するだけでなく、鶴岡にも働きかけてきた。球場に入ってくると、学生風の青年が「××は買収されているというウワサがあるから、今日は登板させないほうがいい」と書いた紙を渡してきたり、あるいは「こういう情報が入ってきているから気をつけたほうがいい」と話しかけてくるものもいた・・・
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