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清原和博、栄光と転落(最終回)

清原和博、引退、そして…(9)

 

清原和博引退を特集したのが、2008年10月20日号だ。そして、その前の10月13日号、表紙は西武優勝だが、巻頭記事は王貞治ソフトバンク監督の勇退記事。日本球界で、王の世界記録868本塁打に本気で挑んだ男は、おそらく清原ただ一人だ。ドラフト時は“甲子園最強打者”と相思相愛と言われた“巨人監督”。紆余曲折を経て、2人が最後にユニフォームを着たシーズンが同じになるとは、だれも想像できなかった。

現役最終打席は空振り三振


仰木の思いに応えて


 2005年オフ、巨人を自由契約となった後、清原の携帯に直接電話してきたのが仰木彬だった。04年オフ、近鉄がオリックスと合併し、「オリックス・バファローズ」が誕生したが、再編問題のきっかけともなった合併劇は野球ファンの反感を買い、さらには近鉄のエースの岩隈久志らが楽天に移籍して戦力も大幅ダウン。まさに“火中の栗”を拾う形で新チームの監督職を引き受けたのが、2チームで監督経験がある70歳の仰木だった。秘していたが、すでに胃ガンを患っており、「グラウンドで倒れたら本望」という言葉には、事情を知らぬ者にも伝わってくる凄みがあった。

 仰木は単刀直入、「オリックス・バファローズに来ないか」と言ってきた。1年前にも巨人放出の可能性が言われていた清原獲得に動いており、2年越しのラブコールである。すでに年齢と健康上の理由から監督を退任し、シニア・アドバイザーとなっていたが、清原獲得への執念は鬼気迫るものがあった。スター選手の獲得でオリックス・バファローズ、そして、パ・リーグを盛り上げたい――それが、自分が球界にできる最後のご奉公と思っていたのだろう。

 ただ、清原自身、巨人を解雇されたショックからまだ抜け出せず、また、手術を受けた左ヒザの回復具合がはっきりしないことで、なかなか答えを返せなかった。それでも仰木はたびたび電話、また上京して実際に会い、誠意と情熱を尽くし説得。徐々に清原の心をつかんでいった・・・

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