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平成タイガースを語る

屈辱と栄光を知る男 桧山進次郎インタビュー 「低迷期は負けグセがあった。2003年は勢い、05年は勝つべくして勝った」

 

平成30年間の阪神は「暗黒時代」と呼ばれる万年Bクラスの長い時期を経て、黄金期を築くところまで駆け上がった。そのどちらをも知るのが桧山進次郎氏だ。阪神一筋22年間、激動の平成を振り返る。
取材・構成=椎屋博幸 写真=BBM

選手会長として選手たちをまとめあげ18年ぶりの優勝に貢献しただけに桧山[左前]の喜びもひとしおだった


先制されると負けと思った


 桧山進次郎が入団した1992年は、あわや優勝という快進撃で2位に。だが、翌年には80年代後半から続く「低迷期」へと戻った。しかし、2002年に星野監督を招へいすると、翌03年に18年ぶりのリーグ優勝。ここから「強い阪神」の時代が始まった。桧山はその「低迷」と「栄光」をいずれもレギュラーとして経験した貴重な選手なのだ。

 1992年に入団した当時は、阪神はそこまで強くなかったチームでしたので、もしかしたら「即レギュラー」もという安易な考えがありました。でもこの年、中村(中村勝広)監督の下、亀山(亀山努)と新庄(新庄剛志)が頭角を表しました。私は5月に約2週間だけ一軍にいただけなので、あの「亀新フィーバー」と優勝争いには加わっていないのですが、その年の秋季キャンプは亀山と新庄を目当てのファンが集まり、熱狂ぶりがものすごかったのを覚えています。

しかしその年以降、チームはまた勝てない状況に戻ってしまいました。そんな中、私は外野の守備要員として徐々に一軍の試合に出始め、96年にレギュラーの座をつかみました。97年になると四番も打ち始め、若さゆえの怖いもの知らずの選手でもありました。一方、チームは依然として低迷し続け「負けグセ」がチームの中にありました。選手たちの中に、表向きはチームのためにという部分がありつつも、先制点を奪われたりすると「今日も負けるのか」という雰囲気がチームの中にあり、意気消沈してしまう。96年からの吉田(吉田義男)監督時には「もっと感情を表に出せ!」と言われていました。

 その後、99年からは野村(野村克也)監督が就任します。野村監督は「野村再生工場」と言われるように、なかなか能力を出し切れない他球団の選手を入れ、若手たちを育て上げながらチーム強化をしていました。野村監督が若手に切り替えたこともあり、私は四番を外され、試合出場さえ少なくなっていったことで・・・

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