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平成ドラゴンズを語る

3代目ミスタードラゴンズ 立浪和義インタビュー 「強い時代はセンターラインがしっかりしていた。今のドラゴンズにも勝つ喜びを知ってほしい」

 

入団は平成が幕を開ける前年の1988年。昭和最後の新人王となった立浪和義氏は、“10.8”、本拠地移転、そして2000年代に入って迎える黄金期と、激動の平成をドラゴンズ一筋で駆け抜けた。
取材・構成=坂本匠、写真=BBM

2009年9月30日、最後の打席も美しいスイングは変わらず。487二塁打は引退から10年が経った今なお破られていない日本記録だ


10.8は大きな財産


 1987年春夏の甲子園で優勝したPL学園高のキャプテンで、中日にドラフト1位で入団。昭和最後となったペナントレース開幕戦で先発デビューを飾り、この年、110試合に出場、75安打(打率.223)、4本塁打、18打点に、22個の盗塁を決め、チームは優勝、自身も新人王のタイトルを獲得した。しかし、さらなる飛躍を期待された翌平成元年は、まさかのシーズンになってしまった。

 平成元年のシーズン、私のプロ2年目ですが、右肩を痛めて30試合にしか出られませんでした。実は1年目の途中から肩がおかしくて、日本シリーズは痛み止めの注射を打って出場していたんです。オフは休んでおけば大丈夫かなと思って、特に何もしなかったのが悪かった。いざ年が明けてボールを握ると投げられない。高校を出てすぐの1年目から優勝も経験させていただいたんですが、そこで実感したのはまだまだプロでやっていける体力がないということ。ピッチャーが故障のために1年投げられないというのは分からないでもないですが、野手で半年以上ボールをまともに投げられないのは……。「こんなことで大丈夫かな?」という思いでひたすら肩のリハビリ。それと並行して全体的な体力アップにも時間を割きました。1年目は無我夢中でやっていただけで、それではダメだと気付かされ、体調管理に気を付けるようになったのが平成元年でしたね。

 私の22年のキャリアのうち、ナゴヤ球場で9年間、ナゴヤドームで13年間プレーをしました。土の球場では甲子園がNO.1という見方をされる方が多いと思うのですが、ナゴヤ球場も負けていません。特に内野の状態は素晴らしいものがありました。いまの時代と違い、ボールもあまり飛びません。あの狭いナゴヤ球場でも、ホーム方向への向かい風が吹くと、オーバーフェンスをしない。私のようなタイプはなおさらです。そうなると、守備が大事になってくるのですが、グラウンドの整備が行き届き、非常に守りやすかったのを覚えています。忘れられないのは・・・

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