オリックス在籍11年間で積み上げた勝利数133は球団最多。球速は130キロ台ながら、スローカーブを交えた緩急自在の投球で打者を幻惑した左腕は、“3人の指揮官”の教えで投球術を磨いていった。 取材・構成=鶴田成秀、写真=BBM 仰木彬監督[写真左]の下で1995、96年はリーグ連覇を達成。“仰木マジック”と称された采配の根拠も身近で感じてきた
平成とともに始まった新球団
前身の阪急は身売りし、オリックスに球団経営権を譲渡。新球団『オリックス・ブレーブス』の発足年は奇しくも新年号・平成と重なった。昭和の阪急の魂を受け継ぎ、新時代の担い手として、成長を遂げていくナイン。星野氏もまた、上田利治、土井正三、仰木彬監督と、個性的な3人の指揮官の下で、自身の投球を見つめ直していったという。 昭和の話になりますが、阪急最終年の1988年のことです。山田(
山田久志)さんと、福本(
福本豊)さんが、上田監督に呼ばれ、姿を消しました。「引退されるのだろうな……」と、思っていましたが、監督室から出てきたお二人が悲しい顔をして、こう言ったのをはっきり覚えています。
「阪急がなくなる」
お二人は同年限りで引退され、昭和とともに阪急はなくなることに。そして、平成とともにスタートしたのがオリックスです。球団の親会社が変わることを経験している選手なんているわけもなく、「どうなってしまうのか……」と思う選手ばかり。僕自身もそうでした。ただ、野球をやることに変わりはない。だから、気持ちを入れ替え、新球団の『オリックス・ブレーブス』の一員として頑張ろう、と。それでも、やっぱり戸惑いがありました。ユニフォームも、まるで違うわけですから。今まで、赤いユニフォームを身にまとっていたのに、チームカラーは青に。違和感だらけのスタートでしたね。
ただ・・・
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