週刊ベースボールONLINE

わが心の甲子園 あの夏を忘れない

高嶋仁(元智弁和歌山高監督)インタビュー 伝説の名将が語る 「甲子園のない人生は考えられない」

 

昨夏までの監督生活46年間で38度の甲子園出場、積み重ねた春夏通算勝利数は歴代最多の68勝を数える。自身はベンチの前で仁王立ち――。魔曲“ジョックロック”を背に強打の姿勢を貫けば球場の雰囲気を一変させるなど、智弁和歌山高を“名門”に育て上げた。そんな高校球史に名を残す名将の原動力は“甲子園”の3文字に尽きるという。
取材・構成=鶴田成秀 写真=BBM


目指したワケは自らの体験から


 ここに来るために毎日、毎日、苦しいことをやってきたんだ。ここで野球をするために、練習を積んできたんだ。そう思える場所が甲子園なんです。県大会の1回戦で負けても、決勝で負けても、負けは負け。県で1つの学校しか土を踏むことができない特別な場所です。だから私は“甲子園”だけを目指してやってきましたし、選手たちにも“甲子園”の3文字を植え付けてきました。ノックを打ち、エラーをすれば「そんなんじゃ甲子園には出られんぞ!」、打撃練習で打ちそこなえば「それでは甲子園に出てくるピッチャーは打てんぞ!」とゲキを飛ばして。そこまで、甲子園にこだわったワケは実体験にほかなりません。

 ただ私自身、甲子園にあこがれていたかと言えば、実はそうではないんです。少年時代はうまくなりたい一心で野球に打ち込み、中学時代に(長崎)県大会で優勝しました。が、当時の中学校の大会は県大会止まり。九州大会も、全国大会もなかったんです。だから高校での目標は“全国大会”に出ること。そこで、地元の強豪高校である海星高校に進み、2年夏、3年夏と甲子園に出場することができました。“甲子園”ではなく“全国”を目指していた私でしたが、甲子園に出た感動は今でも忘れられないんです。開会式で球場に入ったときの景色、多くの観客と大声援。うまく言葉で表せられないほど、とにかく感動しました。私の指導者としての原点は、ここにあるのです。

 もう一度、甲子園へ。その思いの私と、遊びたい盛りの高校生。当然、温度差を感じることもありました。智弁学園での監督時代には選手たちに練習をボイコットされたことも。当時、天理、郡山、御所工と強豪校が多い中で、ほかの学校が4時間練習していればウチは8時間やる。とにかく、厳しい練習を課したのが原因だったのでしょう。選手たちが、グラウンドに姿を現さなくなり・・・

この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。

まずは体験!登録後7日間無料

登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。

HOT TOPICS

HOT TOPICS

球界の気になる動きを週刊ベースボール編集部がピックアップ。

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング