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甲子園の魔物 決勝戦の魔物

【甲子園の魔物】わずか5センチ。浜風に戻された初優勝/熊本工高(1996年夏)

 

第78回全国高校野球選手権大会の決勝は、熊本工と松山商、古豪同士の激突となった。長い歴史を誇りながら、甲子園では初めての対戦だった。9回二死走者なしから追いついた熊本工は、延長10回、一死満塁という絶好のサヨナラのチャンス。そこで、選手交代したばかりの松山商のライトへ、優勝を決めるようなフライが上がった。小雨がぱらついている。風も強く吹いていた──。
著=楊順行、写真=BBM ※記録は発刊時の2016年現在


 甲子園には──ことに夏──ライトからレフトに、特有の強い浜風が吹く。フライが上がると、レフト定位置の打球があわやホームラン性の当たりになったり、ライトの守備範囲のはずが内野手との間に落ちるポテンヒットになったり。ときにはまったく目測を誤り、見当違いの方向に走った野手が右往左往することもある。

 どんなに鍛練を積んでいても、自然の営みは制御できない。そして、風になぶられた野手がフライを捕れず、その走者が決勝のホームを踏むケースはいくらでもある。もし、風が吹いていなかったら。吹くにしても、もうちょっと弱ければ。風。それは、甲子園に棲むという魔物の一形態だ。

 全国には、春夏の甲子園で合計3回以上決勝に進んだチームが40近くある。そのうち春夏合計5回優勝の大阪桐蔭、4回優勝の箕島(和歌山)、3回の天理(奈良)と報徳学園(兵庫)と、決勝まで進めば負けたことがないチームがあるかと思えば、3回コマを進めた決勝で、一度も勝てていないチームが二つある。仙台育英(宮城)、そしてこの物語の主役・熊本工だ。

 通称、熊工。1898(明治31)年、熊本県工業学校として設立された。戦後の学制改革で現校名となり、創立120年になろうとしている伝統校だ。野球部は1923年の創部で、センバツ、夏ともに20回出場し、春夏通算45勝は全国20位タイである。

 巨人軍監督としてV9を達成した“打撃の神様”川上哲治氏から前田智徳(元広島東洋)、荒木雅博(現中日)、藤村大介(現巨人)らまで、多くのプロ野球選手を輩出した、

 甲子園では、夏3回の準優勝がある。最初の決勝進出は34年、第20回全国中等学校優勝野球大会。このときは決勝で呉港中(広島)と対戦し、呉港のエース・藤村富美男(元阪神)に2安打14三振で完封負けした。続いては、37年の夏。川上─吉原正喜(元巨人)のバッテリーは、準々決勝で呉港中を破るなど順当に勝ち上がり、決勝の相手は中京商(現中京大中京・愛知)だった。だがこのときも三番川上、四番吉原が相手エース・野口二郎(元阪急など)に無安打に抑えられ、1対3で敗れた。

 そして──熊本工がもっとも優勝に迫ったのが、それから59年後の96年の夏である。レトリックとしてではなく、あと10センチ、いや、あと5センチで、熊本県勢初の夏の全国制覇に手が、いや、足が届くはずだった。

「オマエが決めたら終わりやで!」

 ライトを守る松山商(愛媛)・矢野勝嗣の頭に、そんな声が響く。

 96年8月21日、第78回全国高校野球選手権大会は、熊本工と松山商との決勝戦を迎えていた。1902年創部で、このときが出場25回目の松山商と、出場14回目の熊本工。いずれも名だたる古豪だが、甲子園で対戦するのは初めてだ。

 熊本工が59年ぶりの決勝進出なら、選手権にめっぽう強いことから“夏将軍”といわれ、夏だけで4回の全国制覇がある松山商にとっては、10年ぶりの決勝になる。

 その松山商が3対2とリードした9回の守りも、二死走者なし。優勝まであと一人と迫りながら、先発・新田浩貴がまさかの同点ホームランを浴び、試合は振り出しに戻っている。そして、もつれこんだ延長10回裏の守り。一死満塁というサヨナラ負けの大ピンチから、松山商のライトの守備には矢野がつき、打席には熊本工の三番・本多大介が入った。

 初球のスライダーを叩くと、いい角度でライトに上がる。その瞬間矢野が、ホームランかと思うほどの打球だった。頭を越えるか。矢野は、一目散にフェンス際まで背走した。かりにヒットにはならなくても、サヨナラの犠牲フライには十分おつりがくる。テレビ中継のアナウンサーも、声を裏返した。

「いったぁ! これは文句なし!!」

 サヨナラ優勝の決めぜりふである。熊本工ベンチはだれかれかまわず抱き合い、松山商ベンチは“やられた……”とうなだれたのだ、確かに。

 ところが、右から左への強い浜風に押された打球は、思いのほか戻される。捕れなければシャレにならないと、いったんバックからこんどは必死に前進した矢野は、

「この距離だと、カットマンに投げたら絶対に間に合わない。どうせサヨナラで負けるなら、思い切ってダイレクトでホームに放ってやれ・・・

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