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甲子園の魔物 魔物を手なずける

【甲子園の魔物】渡辺元智前監督の名勝負十番

 

2015年まで、長きにわたって強豪・横浜を率いたのが渡辺元智だ。甲子園出場は、春夏通算27回。1998年の春夏連覇を含め、つごう5回の優勝を果たしている。この稀代の名将が肌で感じたのは「ビッグプレーが流れを引き寄せる」という、甲子園の定理だ。それこそが魔物を刺激せず、手なずけるための方法なのかもしれない。渡辺の記憶には、そういうシーンが鮮明に浮かび上がる。
著=楊順行、写真=BBM ※記録は発刊時の2016年現在


 孫みたいな選手たちと優勝できて、うれしく思います──。2006年、第78回選抜高校野球大会決勝。清峰(長崎)に21対0という記録的大勝で優勝を果たすと、横浜(神奈川)の渡辺元智監督はそう言った。

 15年の夏限りで勇退した渡辺には、これを含めて春3回、夏2回の全国制覇がある。監督として通算5回の優勝は、PL学園(大阪)の黄金期を率いた中村順司の、6回に次ぐ数字だ。甲子園通算51勝も、高嶋仁(智弁和歌山)、中村に次いで3位タイである。

 初めての優勝は、初出場だった1973年の、第45回センバツだ。長崎誠の史上初、そして現在まで唯一のサヨナラ満塁ホームランが飛び出し、エース・永川英植(元ヤクルト)を中心に、作新学院(栃木)・江川卓(元巨人)らのいたレベルの高い大会を制している。当時の渡辺は、監督就任6年目。28歳と、選手たちのアニキといってもいい年代の、若き指揮官だった。

 その渡辺には、何回かじっくりと話を聞いたことがある。

「自分の高校時代は、神奈川の準決勝で負けています(62年、2対3鎌倉学園)。甲子園には縁がなかった。ですから、その初出場のときには、まず一人きりで甲子園に見学に行ったんです。

 ちょうど芝の手入れをしていたのかどうか、グラウンドに入れてくれまして、初めて足を踏み入れました。外野のフェンス沿いをじっくりと歩いて、ああ、この看板とこの看板を結んだところに守らせようとか、マウンドにも立ってみまして、けっこう感激したんです。

 振り返れば、大学2年で肩を痛めて野球を断念し、中退して自暴自棄の日を送り、誘われて母校のコーチになったのが65年です。監督になったのは67年の秋でしたが、県内には横浜商や東海大相模などのライバルがいて、なかなか甲子園には手が届きません。“やっぱり渡辺じゃむずかしいな”などと言われもしました。

 最初のうちは、指導理念なんてないようなものですよ。ただ厳しい練習、日本一長い練習をやれば日本一になれるというのが漠然とした信念で、細かい技術を教えるよりも、スポーツの世界は根性さえあればいけると信じていました。ライバルよりも厳しくやれば勝てるはず、という単純な理念ですね。

 それといまにして思えば、自分はこの道で生きていかなきゃならんというような切迫感があり、選手というのはそのためのひとつの道具だったんです。

 当時は、教師ではありません。監督というのは、ハッキリ言えば自分が生きていく、生活していくための職業でしょう。そこでなんらかの実績をつくりたい、つくらなければならないという思いだけで、選手を指導するという感覚はまるっきりなかったですね。勝つことが自分にとって大事なことで、選手を鍛えるのは結果を出すため、という……。

 だからとにかく夜中まで長い時間やったり、根性をつけるには選手に苦痛を与えるしかない、というような練習で満足していました。犠牲者も相当いたと思いますね。負けたら“走っておけ”、たるんでいたら“正座しなさい”。そんなやり方でも優勝できたのは、選手各自に技量が備わっていたこともありますが、たまたまスパルタ指導に耐えうる選手が集まっていたからだと思います」

 73年のセンバツで優勝した横浜だが、その年の夏はつまらないミスから東海大相模に敗れ、甲子園出場を逃した。その後なんとか74年センバツ、78年夏と甲子園の土は踏んでいるが、いずれも白星ひとつがやっとだった。2度目の優勝は、愛甲猛(元中日など)がエースだった80年夏まで待たなければならない。

「センバツ初出場優勝のあとは、まったくの壁にぶつかりました。心のどこかではスパルタでいいじゃないかと思いつつ、もうひとつ壁を突き破れない時代が続いて、自分が変わらなければ選手もうまく指導できないのでは、もっと勉強しなければ……と思い始めるんです。32歳のときに教員免許を取得したのは、その現れのひとつです。

 また、横浜の百人の会という団体の末席に置いていただきました。そこで経済界の方や、スポーツにしても違った分野の方々と交わり、話を聞いたのが大きかったですね。白幡憲佑さんら、高僧の説教を受けたり、個人事業主の方と話したり。白幡さんを通じて知り合った山口良治(伏見工ラグビー部元監督・ドラマ『スクール☆ウォーズ』のモデル)なんかは、いまでも兄弟づきあいをしています。

 そういう勉強によって、野球を見る視野が広がったといいますか。まずは、自分自身が半信半疑だったスパルタから脱皮して、選手の気質を把握するということに全力を注ぎました。

 もちろん、技術的な指導はちゃんとやるんですが、ウチの学校はどうもやんちゃな性格でしたから、そういう環境からいえば、選手のハートをつかみ、いかにやる気を起こさせるかが大切でした。

 選手の気質というのは、時代や環境によって180度違います。たとえば初めての優勝の73年といえば、テレビゲームもなにもなく、遊びといえば野球をやるしかなかった時代の子でした。年齢が近かったせいもあるでしょうが、監督と選手も人間の、ハートとハートとしてのつき合いでした。ものすごい厳しさがあり、厳しいなりにお互い同じものをめざしているという連帯感があった。監督と選手という立場を越えて、生徒から私に直接、なんでもかんでもコミュニケーションをとってきましたしね。

 それが21世紀にもなると・・・


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