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パフォーマンス向上のためのヒント

パフォーマンス・コーディネーター 手塚一志の野球“上達”の道「トレーニングから“カラダの操り方”にたどり着くまでの失敗の連続。島田誠さんからの無言の教え」

 

パフォーマンス・コーディネーター 手塚一志


衝撃のデビュー旧態依然としていた野球界


 読者の皆さん、こんにちは。「パフォーマンス・コーディネーター」の手塚一志です。今回から数回にわたって、ボクが野球の世界に足を踏み入れてから30年以上にわたる経験を交えながら、野球がうまくなるとはどういうことなのかをお伝えしていければと思います。皆さんの野球“上達”のためのヒントになればうれしい限りです。

 スポーツ科学を学んでいたボクが野球に携わるようになったのは1987年、筑波大大学院修了後に日本ハムのトレーニング・コーチに就任したのがスタートでした。今、思い返してみても“衝撃”のデビューでしたし、失敗の連続、試行錯誤の始まりでもありました。

 当時のプロ野球界のフィジカル面は、陸上競技経験のある指導者が“走る”ことを用いて体力強化するという「ランニング・コーチ」が担当していました。その意味では、体系だったトレーニングやコンディショニングの専門性はまだ浅い時代でした。一方、ボクはスポーツ科学を専門的に学んできた自負がありましたし、科学的な筋力トレーニングや新しいトレーニングで選手たちにパワーアップしてもらい、メジャー・リーグに追いつけるようにと意気込んでいました。

 ところが、まずトレーニング施設に愕然(がくぜん)としました。当時の日本ハムの二軍施設は多摩川の河川敷で、トレーニング設備も川崎の「勇翔寮」の洗濯場の中央の空きスペースに、昔ながらのトレーニングマシンが数台置いてあるだけだったのです。

 仕事始めとなった1月上旬、ボクが最初にトレーニングを任された1人がベテランの島田誠さんでした。身長はボクとほとんど変わらない168センチでしたが、ベストナイン2回、ゴールデン・グラブ賞6回、通算352盗塁の名選手です。ボクはベンチプレスマシンの重りをまず40キロに設定しました。現在では100キロを軽々と持ち上げる選手もいるくらいですが、誠さんはそそくさとベンチ台に仰向けになり、バーを握った直後、動きをピタッと止めて・・・

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