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2020高校野球クローズアップインタビュー

永田裕治(日大三島高監督)インタビュー『全員野球』の真意 甲子園通算23勝。静岡で新たな挑戦 「野球のことはさることながら、ええ教員でありたい」

 

母校・報徳学園高を23年率い、春夏を通じて18回の甲子園出場。2002年春のセンバツ優勝へ導くなど、通算23勝を挙げた。2年任期の高校日本代表監督を経て、次なるステージは静岡・三島でのチャレンジである。
取材・構成=岡本朋祐 写真=榎本郁也

三島駅から徒歩約10分にある同校は系列の日大国際関係学部が併設する。甲子園は1989年夏が最後。名将の手腕が大いに期待されている


 全体練習終了後、学校正門で写真撮影をお願いした。すると、自転車で下校する野球部員が通りかかった。

「お先に、失礼します!」

「気いつけて、帰りや」

 コテコテの兵庫弁である。何気ないこの一言が、生徒側からすれば、これほどうれしいことはない。

「メンバーに入れない子にも、人生がある。野球がうまい子だけに陽が当たるのではなく、控え部員が、スタンドで心からメンバーを応援できる体制を作っていきたいんです。全員野球。日大三島でも、その方針は変わりません」

 4月1日、保健体育科の教師として着任した。3月末に兵庫から離れ、静岡では、学校近くでの単身赴任生活。お気に入りの原付バイクで通う。

「一人での生活? 初めてです。新たな挑戦を後押ししてくれた家族には、感謝の言葉しかありません」

1981年夏に甲子園全国制覇を経験


 報徳学園高では3年夏に「七番・右翼手」として初の全国制覇。エースで四番の金村義明(元近鉄ほか)とは同級生だった。教師を目指して中京大へ進学し、卒業後は87年4月から桜宮高(大阪)のコーチを経て、90年4月から母校・報徳学園高へ戻りコーチとしてのキャリアを積んだ後、94年4月に監督に就任している。

「私は高校野球の指導者になりたい思いを抱いていましたが、それよりも、教師になりたかったんです。報徳学園での当時から担任も持っていましたし、学園生活とグラウンドを含めた教育。そうでなければ、高校野球ではありません」

 報徳学園高のグラウンドは、ラグビー部やサッカー部らと共用。縦長の形状で、専有できる場所は内野のみ。室内練習場もない。決して恵まれた環境とは言えなかった。しかも、部員は自宅通いであり、限られた時間、スペースでの練習になる。100人以上の大所帯でも、永田監督は「全員野球」を貫いた。大会前、大会中にもかかわらず、すべての部員が同じメニューをこなす。果たしてその真意とは?

「私の高校時代はそれこそ、レギュラー中心の練習。そこで、逆転の発想が生まれたんです。縁があって一緒に野球をすることになった仲間ですから、その絆を大事にする野球部を貫いてきました。『高校野球は教育の一環』という旗印があるのならば、あえてそのスタイルをやろう、と。実力にかかわらず、同じようにプレーできる野球部。一人ひとりの練習量が減るのは当然ですが、そこは、授業開始前の朝を使ったり、工夫すれば何とでもなる」

 この指導方針を決定的としたのが・・・

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