どんな選手であっても、プロへの道程において多くの教えを授かった「恩師」と呼ぶべき存在がある。立大時代の田中和基は、無名の存在からレギュラーに台頭。有り余る才能に頼ることなく努力を続けた成果だった。そして一時は封印していた両打ちの解禁を後押ししたのが、溝口智成監督。当時のエピソードを回想してもらった。 取材・構成=富田庸、写真=BBM スイッチに戻す決断
私が着任したのは2014年1月で、当時の1年生には、のちに
楽天に入団する田中のほかに
田村伊知郎(現
西武)、
澤田圭佑(現
オリックス)とプロに進んだ選手が3人おり、そのほかにも
佐藤拓也(現JR東日本)、佐藤竜彦(現ホンダ)など、彼らと同じような実力を持った選手がたくさんいました。
ただ、当時は「あと1勝で優勝」というところまで行きながら(14年秋、16年春)、そこから最後の壁が破れず、私の監督としての経験不足を痛感していたものです。17年春に35季ぶり13度目のリーグ優勝、そして全日本大学選手権で59年ぶり4度目の大学日本一を成し遂げることができましたが、それは田中らが卒業した直後のことでした。
田中は西南学院高時代、全国的な実績があるわけではなく、学業の成績により指定校推薦で入学しました。立大は近年、アスリート選抜入試という方式を採用しており、野球部にも高校時代の実績がある選手が入学してくるのは事実ですが、その彼らが必ずしも活躍するとは限らないんです。実際、全日本大学選手権決勝のスタメンを見ますと、アスリート選抜組が4人、指定校推薦組が3人、浪人組が2人という内訳でした。田中のように入学当初は無名でも、努力ではい上がってきた選手がレギュラーになることは、立大の伝統とも言えます。
私は就任前の13年冬からすでに練習を見始めていました。彼は入学当初、最も下部の四軍(D班)スタートだったようですが、私がグラウンドに足を運ぶようになったころに・・・
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