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平野謙の「人生山あり谷あり、感謝あり」

平野謙コラム 第12回「僕はこうやってドラゴンズを追い出されました」

 

鈴木ヒロミツ氏と夫人[右]に取材を受ける平野


最初から違和感


 前回は1986年の最終戦(10月17日)で、僕と大島(大島康徳)さんが超いい加減な三遊間を組んだ話をしましたが、この試合の相手が大洋(横浜)で、ファンの人たちが気づいていたかは分からないけど、タイトル争いの最終決戦だったんですよ。

 この時点で、セ・リーグの盗塁トップは大洋の屋鋪要で48、僕は1つ少ない47。大洋にとっても、これがシーズン最後の試合でした。

 へ〜え、当時の記録を調べたんですか? どちらもチームが下位と決まっていたから、終盤はお互い走りまくっているでしょ。僕は前回も話したように体がかなりきつかったこともあり、具体的なことは忘れましたけど、「よう失敗したな」というのは覚えています。

 どんな感じでしたか? 45個目のあと3回連続失敗し、46個目のあと4回連続失敗で、前の日にやっと47ですか。でも、屋鋪もひどかったはずですよ。なるほど、47個の後、3回連続失敗、48個の後、2回失敗ですか。ひとごとみたいなことを言うけど、どっちも必死ですね(笑)。

 あの試合、屋鋪は盗塁ゼロ。というか、4タコで塁に出てないはずです。僕は6回にヒットで出て二盗し、それで並びました。こっちも出塁はそのときだけだったんで抜けませんでしたけどね。

 その後、ショートから外野に回ったから、もしかしたら高木守道さんが、僕の気分転換のために内野を守らせたのかもしれないですね。そんなこと絶対に説明してくれる人じゃありませんが(笑)。

 タイトルですか? 当時は、それほどうれしかったというわけじゃないけど、いま振り返ればいい記念になったなと思います。

 代理監督をやっていた守道さんが、そのまま監督をやるわけじゃないんだろうなというのは何となく分かっていたけど、次の監督が誰かなんて、まったく考えてなかったですね。星野仙一さんの名前がシーズン中から出てた? そうでしたっけ。確かセンさんはNHKのキャスターをやっていましたよね。シーズンが終わってから、そんな話があると聞いて「ふ〜ん」と思っただけです。

 就任が決まったときは、喜んでいた選手もたくさんいたけど、僕は・・・

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