阪神三塁の亡霊
では、ダンプの懐かしの人たちシリーズです! 忘れていることもたくさんありましたが、話していると、結構、思い出すものですね。
前回は、タイガース時代の内野手の先輩を紹介しましたが、話し漏らしたのがサードです。
阪神のサードと言えば掛布(
掛布雅之)の印象が強いかもしれませんが、もう少し昔からのファンなら、三宅(
三宅秀史)さんを思い出す人も多いのではないでしょうか。長嶋さん(
長嶋茂雄。
巨人)よりうまかったと言われるサードです。
でも、実は三宅さんとは入れ違いだったんですよ。僕の入団は、昭和37年(1962年)の8月で、タイガースの名古屋遠征の際に契約をしたんですが、その後、僕は荷物をまとめ、大阪に引っ越して、そのまま二軍暮らし。三宅さんは、その後、9月になってからの大洋戦(川崎)の試合前、味方のキャッチボールの球が目に当たって、長い離脱になってしまいました。あとで戻っては来ましたけど、もう以前の動きはできんかったようです。
スローイングはきれいでした。フットワークがよくて、真っすぐの球を投げる。いわゆる、“大リーグボール”はない三塁手でしたね。
シュート回転する球は一塁手も危ないんですよ。走者側に球が流れるんで、捕球したときヒジが伸び、そこに全力で走ってきた相手の選手がぶつかることがある。それでヒジや手首を壊すファーストもいました。大洋時代、田代(
田代富雄)がやられたときもありましたね。
えっ、それは大リーグボールじゃなく、魔送球? なんですか、それ?へえ、『巨人の星』の主人公の父親(星一徹)が投げたんですか。というか、大リーグボールというのは誰かが言い出して使っていただけで、そんな魔送球なんて恐ろしい球があるのは知りませんでしたけどね(※実はこれも少し違った。『巨人の星』だと、サードから一塁に向かう走者に当たるような送球を投げ、走者がびびってコケた球が大きな横のカーブのように一塁手に向かって曲がっていき、アウトになっていた)。
三宅さんの後、
ヤシックというのが1年くらいやったと思いますが・・・
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