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1986時代の証言者

元西武・田尾安志インタビュー 「森さんとは合わなかったが、日本シリーズでは勝負師だと感じることがあった」

 

就任1年目でいきなり日本一に輝いた森祗晶監督。しかし、この指揮官と「合わなかった」と公言する男がいる。85年、中日から西武へ移籍してきた田尾安志だ。信念の男が語る森西武の光と影とは──。
取材・構成=小林光男

西武の2年間で思うような結果を残せなかったが、それには原因があった


西武に移籍してきてキャンプで驚いたこと


 1976年、ドラフト1位で同志社大から中日へ入団した田尾安志。同年、新人王を獲得し、巧打のリードオフマンとして82年から3年連続セ・リーグ最多安打をマークした。82年には優勝も経験。選手会長も務め、中日に必要不可欠な選手だったが、85年キャンプイン直前に西武へトレードとなった。まずは移籍の経緯と同年に体験した“広岡ライオンズ”について語ってもらおう。

──85年、田尾さんは中日から西武へトレードされましたが、その経緯は?

田尾 中日を放出されたのは選手会長として選手からの要望をいろいろ球団上層部に発言したからです。当時は器の大きい人たちに言っているつもりだったんですが、後になってそこまで器の大きい人はいなかったと気付きました。ただ、彼らの立場は強くなかっただろうし、もう少し言い方を変えれば良かったかなという自分なりの反省はあります。

──キャンプ直前でのトレード通告でしたね。

田尾 そうですね。85年1月24日、ナゴヤ球場で合同自主トレをしているときに食堂に呼ばれたんです。そこで「西武へのトレードが決まりました」と球団代表に言われました。頭にきたのですが何も言わず、「分かりました」とだけ言って帰りましたね。僕はドラゴンズに骨を埋めるつもりだったので、非常に残念ではありました。中日の最後の3年間は3年連続最多安打でしたから。戦力的には絶対に必要だったと思うんです。

──非常に慌ただしい時期だったと思います。

田尾 キャンプまで毎晩のように送別会があって、練習がしっかりとできませんでしたね。それで、いざ西武でのキャンプに臨んだら、2月1日から西武の選手はみんな体ができていたんですよね。僕ものんびりとキャンプを送ればよかったんですけど、周りの選手につられてペースが上がってしまい、左ヒジを痛めてしまったんです。これがあとあとまで響いた。西武での2年間は85年が打率.268、86年が打率.265と低調な数字に終わったのもこのケガが原因でしたね。

──キャンプで中日との違いを感じることはありましたか。

田尾 紅白戦で1試合4つの死球を記録したことがあったんですよね。若手投手が相手を抑えようと躍起になって内角を攻めた結果です。生き残って、自分の居場所を確保するために全員が目の色を変えてアピールする。オープン戦ではなく、紅白戦から勝負の場なんだ、と。競争の激しさを実感しましたし、西武は82、83年と連覇していましたが、チーム内に競争意識が根付いていることが強さの源かと思いました。中日ではなかったことですからね。

──管理野球を標ぼうしていた広岡達朗監督の野球に関しては?

田尾 選手は歯車の一つなんですよね。例えばバントのサインが出たとして、打球を転がす方向もベンチが決める。だから、選手に考える余地がないんです。ランナー二塁でレフトへホームランを打っても褒められることはない。僕は広岡さんは二軍監督が適任だと思いましたね。なぜなら・・・

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