週刊ベースボールONLINE

いざ東京2020オリンピック

【オリンピック経験者からの言葉】第3回 世界一の喜びと、難しさを知る男・西岡剛

 

2000年代に入り、プロと日本代表を取り巻く環境は大きく変化した。00年からオリンピックへのプロ参加が解禁、06年には新たな国際大会であるワールド・ベースボール・クラシック(WBC)が創設され、日本は初代王者に輝く。その2年後に行われた北京オリンピックだけに、1984年以来の金メダル獲得が期待されたが……。天国と地獄、どちらも味わった男が語る、日本代表のストーリー。
取材・文=坂本匠 写真=高塩隆、JMPA、BBM


楽しくてしょうがなかった


 北京オリンピックをテーマにする上で、2006年の第1回WBCについて触れないわけにはいかない。05年にロッテのリーグ優勝、日本一に貢献した高卒4年目の西岡剛が、初めて日本代表のユニフォームに袖を通し、世界を相手に戦う経験を得た、野球人生のターニングポイントの1つとも言える舞台である。



──野球と日本代表をキーワードにしたとき、最も古い記憶はどんなことですか。

西岡 小さいころに見ていた高校ジャパンです。福留孝介(現中日)さんがPL学園の3年生のときで、僕は小学4年生でした。テレビで特集が組まれていて、こういう日本代表のチームがあるのか、と。確か、韓国で大会(※1995年の第8回日米韓三国親善野球)が行われていて、福留さんがバックスクリーンにホームランを打ったのを鮮明に覚えています。その福留さんとPL学園、高校ジャパンで二遊間を組んでいた渡辺剛史(→青学大→日本通運)さんという方がいて、僕の地元のリトル、シニアの先輩。家も近所ということもあり、ずっと渡辺さんに注目して追いかけていました。

──「いつかは自分も、日本代表に」と。

西岡 PL学園に入りたいと思ったのは、この小学4年生のときです(※大阪桐蔭高に進学)。でも、日本代表を意識することはなかったですね。実際、中学、高校と学生時代に日本代表には縁がありませんでした。高校3年生のとき、「高校ジャパンに選ばれるかもしれない」というお話はあったんですが、甲子園で1回戦負けの高校からは選ばれないというルールが当時はあったらしくて、1回戦負けで話はなくなりました。そのころは、オリンピックもまだアマチュアの大会でしたよね。2000年にプロの参加が認められるようになりましたが、シドニー大会(プロ・アマ混合)ではメダルを逃してしまった。結果はどちらに転んでも仕方がないこと。台本のあるドラマとは違って、野球はノンフィクションですから。

 ただ、試合後にいつも僕がテレビで見ているプロ野球選手たちが涙している姿を見て、すごいプレッシャーの中で戦う大会なんだなと。このとき、僕は中学3年生だったんですけど、中学生ながらにプロ野球の選手たちも、そんな思いでまだ野球に向き合っているんだ、というところに感心したんです。まさか僕もプロに入って、日本代表に選ばれるようになるとは、そのころは考えもしませんでしたね。

──日本代表初招集は06年に初めて開催された第1回のWBCでした。

西岡 レギュラーとして選ばれたというよりも、たまたま前の年にロッテが優勝して、日本一になって、僕も盗塁王をたまたま獲(と)れた。で、このときに優勝争いをしたチームから中心に選ばれたんじゃないですか? ロッテ勢、ソフトバンク勢が多かった記憶があるんですが(計13人)、ラッキーな感じで僕も選んでいただいたんだと思います。そもそも第1回のWBCはどんな大会なのか、日本での予選ラウンドが始まった時点では、僕らもよく理解していなかったですし、ファンの方はもっと分かっていなかったのかもしれません。イチローさんが出る大会、くらいのイメージですかね。実際、予選はそこまでお客さんも入っていなかったように思います。で、アメリカに移動して、優勝して帰ってきたら、とんでもない騒ぎになっていて驚きました。

──何といっても世界一ですから。

西岡 めちゃくちゃうれしかったですし・・・

この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。

まずは体験!登録後7日間無料

登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。

HOT TOPICS

HOT TOPICS

球界の気になる動きを週刊ベースボール編集部がピックアップ。

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング