1976年にベストナイン、79年には本塁打王を獲得。20歳代中盤に差し掛かった80年は苦悩との戦いが続いた。それでもチームの中心的存在として、そして「四番」としての責任を背負った。まさに「ミスタータイガース」として完成していった80年代であった。 取材・構成=椎屋博幸、写真=BBM 江夏家での衣笠のひと言
「3代目ミスタータイガース」の田淵幸一が1978年オフにトレードで西武へ移籍。それまでベストナインに3度輝き、阪神の看板選手の一人だった掛布雅之は、虎の中心へとバトンを渡された。それに応えるべく79年に本塁打王を獲得。80年代に入り、チームの中心選手としての重責を担うことになる。それを跳ねのけ「ミスタータイガース」と言われるまでになっていった。 ──1980年代は掛布さんがチームの主役として活躍される時代になっていきました。
掛布 まず80年は私にとっては転機になるシーズンだったかもしれないですね。79年に本塁打王(48本)を獲り、80年はヒザのケガをして本塁打の数も落ちてきた中で、自分は本塁打を打つ打者なのか、打率の打者なのか模索していました。
──その答えというのは出たのでしょうか。
掛布 81年の
広島遠征のときです。江夏(
江夏豊)さんの広島のマンションに、食事に招待されて、そこに
衣笠祥雄さんも来られたんです。そのときに「阪神の四番としてファンの前で130試合休まずに野球をやることが、お前の最低の義務だ」と言われたんですよね。
──本塁打や打率を残すより、試合に出ることに意味があると。
掛布 キヌさんが「本塁打やファインプレーを見せるのも大事だけど三振も野球、エラーも野球だ。お前のそういうところを見に来てるファンもたくさんいるぞ」と。さらに・・・
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