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昭和ドロップ

オヤジたちの深堀りTALK 昭和ドロップ 連載出張版「1980年代のプロ野球」

 

週べ本誌で人気連載中の『昭和ドロップ!』の出張版だ。3人は1980年代、激しい戦いを演じた巨人広島の主力であり、甘いマスクで、負けず劣らずの女性人気を誇っていた。今回は川口和久氏には聞き手に回ってもらい、先輩2人に巨人の80年代について大いに語っていただいた。
構成=井口英規、写真=小山真司[インタビュー]、BBM

われら昭和のオヤジたちが別冊に出張!


多摩川のトイレが変わった?


川口 まず、最初の80年ですが、サダさんが初めて先発ローテに定着し、プロ初勝利を含め9勝を挙げ、シノさんもブレークした年ですね。

篠塚 僕は115試合に出た年だな。川口は、まだカープに入る前?

川口 僕は翌年の81年入団です。

定岡 シノは何年目だったっけ?

篠塚 サダさんの1年後だから5年目ですね。あの伊東キャンプの次の年じゃないですか。

定岡 いきなり伊東キャンプか、話を振ってくれてありがとう!(笑)

川口 当時の長嶋(長嶋茂雄)監督が期待の若手を集め、猛練習をさせた伝説の秋季キャンプですね。

篠塚 僕が入ったのはV9の後だけど、当時の選手が何人も残っていた。80年は王(王貞治)さんの現役最後の年でもあったけど、若手がこんなことを言ったら偉そうに聞こえるかもしれないが、王さんが抜けたら、このメンバーでジャイアンツを引っ張っていけるのかな、と思っていた。不安のほうが多かったね。

定岡 僕はなぜか伊東キャンプに呼ばれてないんだけどね(笑)。

川口 期待されてなかったんですか(笑)。

定岡 バカヤロー(笑)。呼ばれなかったが、心は一緒だったからね!(笑)

川口 今のファンの方は、定岡さんと言えば、面白いオジさん、かもしれないけど(笑)、元祖アイドルというのか、多摩川(当時の二軍練習グラウンド)を若い女の子でいっぱいにした人です。

定岡 でもな、川口。今なら人を集めるための営業の苦労とか分かるけど、当時は知らないから、人に注目されるのが苦痛でたまらなかった。

篠塚 僕は助かった。練習しているときにあれだけお客さんがいたら気合入るじゃないですか。誰のファンであれ、見られているという意識があればいい加減なことはできない。

定岡 俺は、お前の踏み台になったのか!(笑)

篠塚 (スルーし)多摩川は、ほんと隠れるとこなかったですね。すべてが見られていました。

川口 立ちションもできない(笑)。

定岡 当たり前だよ! でも、ブルペンの後ろにトイレがあったんだけど、壁が低くて、やってるとき胸から上が隠れない。どうしても女子高生と目が合うんだ(笑)。何とかしてくれと頼んで、隠すために木が植えられた。

篠塚 多摩川はとにかく、選手とファンの距離が近かったですね。

定岡 あれ? これは70年代の話になってるけど、続けていい?

──面白ければ問題ないです(笑)。

81年、巨人日本一メンバー


定岡 当時の巨人のイースタンの試合は、どこに行ってもパ・リーグの一軍の試合より入っていた。ほとんど満員だからね。今思えば、そういうのはすごく財産だよね。

篠塚 ほかの球団は分からないから、いつもこんな感じかなと思っていたけど、あとで言われました。巨人は、いいですねえって。

定岡 相手も巨人戦をするのを喜んでたからね。

川口 僕は、カープで二軍は1年でしたけど、ほとんどスタンドにお客さんがいた記憶がないです(笑)。

篠塚 雨なんか降ったら大変よ。どうしてもやらなきゃって、みんな必死。ガソリンまいて火をつけて水を蒸発させようとしたりね。

──私は新潟出身ですが、確かにイースタンの巨人戦が子どものころ1回だけあって、お祭り以上の騒ぎでした。あれに匹敵するのはドリフが来たときくらいです(笑)。

定岡 ドリフと巨人か。いいね、これぞ昭和だ!

広島キラーと呼ばれて


80年、長嶋監督[左]と握手するサダさん


川口 監督1期目の長嶋さんはどういう雰囲気だったんですか。

定岡 う〜ん、ミスターについては、あちこちで話しているから何がいいかな。シノがまず、しゃべってくれよ。それを聞いているうちに、僕の記憶の扉が開く気がする(笑)。

篠塚 結構、やられましたよね、ピッチャーは。

定岡 うん、なんであんなにピッチャーに厳しかったのかな。

篠塚 それはミスターが野手だからですよ(あっさり)。

定岡 うまいこと言うなあ。でも、ミスターが監督になった当初のあのピリピリ感は今も忘れられない。最初、会話もしてもらえなかったから。言葉も掛けてもらえないし、こっちも話し掛けることができない。やっと会話ができるようになったのは、長嶋さんが監督を辞められて、ゴルフを一緒にできるようになってからかな。あのときは、うれしかったよ。

──定岡さんはカープキラーでしたが、なぜ強かったんですか。

定岡 なぜだろうね。スライダーが武器だったんだけど、山本浩二さん、衣笠(衣笠祥雄)さんと広島市民球場が狭かったこともあってフルスイングで来るんで、やりやすかったのはある。右打者の真ん中からちょこっと曲げたら大抵引っ掛けてくれたから。あとね、自慢じゃないけど、僕はデーゲームに強かったんだ。なぜか分かる? 二軍生活が長かったから昼のほうが慣れているんだ……おいおい、誰か違います、ナイターもすごかったですよ、と言ってくれ(笑)。

篠塚 (スルーして)苦手意識がついちゃったのもあるでしょうね。バッターもありますよ。

川口 82年、サダさんは15勝です。これもカープさまさまですか。

定岡 うん、うち広島は7勝かな。

──広島監督の古葉竹識さんが、なんで定岡1人にそんなに負けるんだと怒った話も聞きました。

定岡 そう言えば、ウソか本当か分からないけど、定岡対策で定岡を獲った、という話もあったね。

川口 徹久ですね(83年広島に入団した実弟)。

定岡 対戦したことがあったけど、本当に嫌だったな。

──篠塚さんは得意の球団は。

篠塚 大洋、ヤクルト。というか、広島以外は特に苦手はなかったよ。

川口 僕がデッドボール当てまくったからじゃないですか。すいません(笑)。

篠塚 いや、それは大丈夫(クールに)。広島はいい投手がいたからね。嫌だったのは大野(大野豊)さん。川口はオーソドックスな投げ方だったから、そんなに気にならなかった。

定岡 北別府(北別府学)はどう?

篠塚 打ちましたよ。

川口 そう言えば、落合(落合博満)さんも、北別府さんは好きだったって言っていましたね。

篠塚 コントロールがいいからね。張っておけばいつか来るんだ。あと、広島は(捕手の)達川(達川光男)さんがようしゃべってたな(笑)。

川口 そうそう。「打者、石コロ」と言って大杉(大杉勝男)さん(当時ヤクルト)に頭をたたかれたり(笑)。

篠塚 「シノは外スラは打ってこないから、ストライク取るのは簡単だ」とか言われ、僕も「その球は最初からは打ちませんから」と言って打ったこともある(笑)。逆に「走者がいないときでいいから、打たせてくれよ」と言われ、「キャンバス寄りに守るから一、二塁間を抜いてください」と言ったこともあった。確か抜けなかったけど(笑)。

川口 そういう会話も昭和ですねえ。当時は審判の人とも会話ありましたよ、「あれ、ストライクでしたよね」と言ったら「悪い」って言ってくれたり(笑)。

篠塚 行って来いで、埋め合わせもしてくれたよね。ただ、平光(平光清)さんはダメだったな。下手なのに強気なんだ(笑)。一度、完全な外のボールをストライクと言われ、さすがにカッとして文句を言ったら「じゃ、ビデオ見てきなさい」と言われたことがある。初めて本気で審判に怒って、ヘルメット投げつけたからね。

定岡 クールなシノが珍しいな。

人格者だった藤田監督


川口 長嶋さんが退団した後、81年が、お二人も中心選手になっての優勝、日本一でした。

篠塚 すべては伊東キャンプの流れなんだよね。原(原辰徳)はその後、入ってきたし、定岡さんはメンバーに入ってないんですけど(笑)。

定岡 それはさっき言ったから強調しなくていい!(笑)

篠塚 最初に話したように、俺たちでできるのかという思いを持ちながらも、80年は伊東キャンプの力を試すという気持ちが強かった。それで実際、あのメンバーが試合でも中心メンバーで出て、それなりに勝った。「よっしゃ」という手応えがあったのに突然、長嶋監督が辞めちゃったんだ。選手はショックでしたよ。だから81年は、恩返しですね。長嶋さんのためにも結果を残さなきゃいけないと、そういう思いが強かった。全員が1つの目標に向かうと強いというのが、あの81年ですね。

定岡 恩返しか。いいね、半沢直樹だ!(笑)

篠塚 ミスターにはプロに入ったときからいつか恩返ししなきゃと思っていたけど、できないうちに辞められてしまいしたけどね。

定岡 ただ、81年、シノは最初、控えだったよな。周りで見えていて「はじき出されそうだな」とは思っていた。

篠塚 ベロビーチの最終クールで、新人の原がセカンドに来たんですけど、そのときは別にライバルとは思わなかった。彼はセカンドの動きじゃないしね。でも、宮崎に戻って、初日が終わって2日目の新聞に「原がセカンド」と出たんですよ。ええっ! という感じ。何の勝負もしていないしね。それでもキャンプを一生懸命やってオープン戦で勝負するしかないと思ったんですが、オープン戦も出してもらえなかった(笑)。

定岡 つらいね。

篠塚 それで開幕前にミスターから電話があったんですよ。「くさるなよ。必ずチャンスあるから、出されたとき結果を出せるように準備しておけ」って。

川口 お、いい話だ。

篠塚 それから気持ちを引き締め、練習も試合を想定しながらやっていたら5月、サードの中畑(中畑清)さんがケガをした(5月4日、阪神戦)。その後、原が三塁に入って、僕がセカンドです。中畑さんが戻ったら外されるかもとは思っていたけど、首脳陣もファンも「これじゃ、篠塚を外せない」という雰囲気にさせようと思って必死にやりました。

定岡 そうそう、中畑さんがナイスケガだったんだよな(笑)。

篠塚 あれがなかったら、そのまま控えだったと思います。

定岡 野球の神様っているんだよね。でも、81年はもちろん藤田(藤田元司)さんの力が大きかったんだけど、優勝したとき、幻の胴上げじゃないけど、ミスターを胴上げしたような気持ちはあった。誰も口に出さなかったけど、僕だけじゃないと思う。

──あのとき、長嶋さんの退団で、チームがバラバラになってもおかしくなかった。それがマイナスじゃなく、優勝するという方向に向いたのがすごいと思います。

定岡 僕らがそういうベクトルを向けられたのは、藤田さんの人間力、優しさでしょう。最初は話したことないし、どういう人かなと思ったけど、何と言えばいいのかな、すごく包容力のある方だった。

篠塚 温厚な方でしたね。周りのコーチはそうじゃないけど(笑)。

定岡 だからよかったのかもしれないよ、メリハリが利いて(笑)。ほかの監督さんと比べていい悪いじゃないけど、それまでは上から押し付けだったのが、特にピッチャーに関してはすごく尊重してくれた。一人前に扱ってくれるから、逆にやらなきゃと思った。長嶋さん、王さんは、本当は優しいんだけど、まず厳しさが来て、その向こうに優しさが見えるという感じだったからね。

篠塚 藤田さんは、野手に関してはほとんど言わなかったですね。助監督の王さんとコーチに任せていた。

川口 あの年の優勝は江川(江川卓)さん、西本(西本聖)さん、定岡さんの先発三本柱も大活躍でしたね。

定岡 シノ、僕ら3人を野手はどう見てたの?

篠塚 3人ともコントロールがよかったから守っていて楽でしたよ。

川口 サダさんもですか?

定岡 当たり前だろ! 俺は、お前みたいにノーコンで野手に迷惑を掛けてないよ(笑)。

川口 バックから見た江川さんは。

篠塚 あの人はランナーがセカンドに行ってからだからね。フォームも違うんだ。足を上げてからの間が長くなる。う〜んとためてね。でも、3人は守っていても面白かったな。

定岡 西本はシュート、俺はスライダー、江川卓は真っすぐ。みんな特徴はあったからね。

川口 僕は子どものころから巨人ファンだったんで、江川さん、西本さんはもう憧れの存在でした。

定岡 俺もだろ(笑)。

川口 もちろんです(笑)

半沢直樹よりすごい!


──広島の話もしておきましょう。古葉野球の印象はいかがですか。

定岡 厳しい攻めをする。あと長嶋さんと逆で、古葉さんはベンチで隠れて、ちらちらとしか見えなかった(笑)。喜怒哀楽を出さないというかね。僕は広島に投げるとき、まずは一番の慶彦(高橋慶彦)をいかに抑えるかをポイントにしていた。かき回されるのがイヤだったからね。打線でも役割がはっきりして、スキを見せたらやられる雰囲気があったな。まあ、僕は好きだったけどね(笑)。ただ、バッターは嫌だったかもね。カープの投手の攻めは厳しかったから。

川口 僕らは「行け」と言われましたから。「ぶつけろ」じゃないですよ、「体を起こせ」です。でも、体の近くに投げるのは技術がいる。実際、僕は体の近くに投げられるようになってから勝てるようになった。

篠塚 原とかずいぶんやられたけど、僕はそんなでもなかった。達川さんとしっかりコミュニケーションを取ってたしね(笑)。よく「シノには当てられんからな」と言っていた。

川口 たまにウソつきますけどね(笑)。

篠塚 もともと僕はキャッチャーを味方にしようという気持ちがあった。内角を狙われ、カッカして「この野郎!」とやっていると、向こうも「なんだこの野郎!」になるでしょ。だから近くに投げられても平然としていた。あと守備だけど、広島は僕の打席になると、三遊間を狭めてきたんで、そこを抜くのが快感で狙ったこともある。

川口 80年代の巨人というと、ラストイヤー、89年、近鉄との日本シリーズも聞きたいんですよ。3連敗4連勝の年です。

定岡 俺はもう引退していなかったから、シノ、お願います。

篠塚 3連敗の後はやっぱり気落ちしたよ。でも、俺はその発言を次の日の朝まで知らなかった。テレビとか見なかったから。朝、ブランチを食べていたら新聞に、こんなこと言ったと書いてあったけど、そのときは「3連敗したし、言われても仕方ないな」って。

川口 加藤哲郎の「巨人はロッテより弱い」ですね。

篠塚 そう。ただ、試合が近くなると、ニュースで前の日の映像が流れるでしょ。それで実際に見て、「コノヤロー」と思った。選手もそうだけど、監督、コーチも間違いなく、火がついた。あとはファンね。ファンがそうなると、球場がそういう雰囲気になってくるんだよね。そこでの香田(香田勲男)のピッチングも大きかった。あの完封で流れが一気に変わった。

──締めの質問ですが、80年代の野球と今の野球の違いは何だと思いますか。

定岡 僕は熱量だと思う。昔のほうが間違いなく、それはあった。今の選手にないとは言わないけど、昔に比べてスマートだよね。

川口 僕は、あのころのプロ野球のほうがエンターテインメントとしての質が高かった気がします。一人ひとりのキャラクターがはっきりしていて、それぞれのポジションで輝いていました。

定岡 何だ、カッコいいこと言うじゃないか。昨日、寝ないで考えたんだろう(笑)。でも、選手だけじゃなく、お客さんも情熱的だったよね。選手もファンも涙、汗を感じる野球をしていた気がする。

篠塚 確かに今より泥くさかったかな。あと、時間がたったこともあるけど、あのころはすごかったなという感じがするんだよね。あのころはファンに聞いても、スタメンや先発の4人くらいまでなら、みんな名前をすらすら挙げていた。

──当時は視聴率20%以上ですからね。みんな巨人戦は見ていました。

定岡 そうそう、半沢直樹よりすごかったんだからね(笑)。

PROFILE

定岡正二/さだおか・しょうじ●1956年11月29日生まれ。鹿児島県出身。鹿児島実高3年時、エースとして夏の甲子園に出場し、甘いマスクもあってアイドルとして大人気に。75年ドラフト1位で巨人入団。しばらく二軍生活が続いたが、80年に先発定着。江川卓と西本聖と先発三本柱と言われ、優勝、日本一イヤーの81年に11勝、82年には15勝を挙げた。85年オフ、近鉄へのトレードを拒否し、引退。通算成績215試合登板、51勝42敗3セーブ、防御率3.83。


篠塚和典/しのづか・かずのり●1957年7月16日生まれ。千葉県出身。銚子商高2年時の74年春夏連続甲子園出場、夏は全国制覇。ドラフト1位で76年に巨人へ入団した。5年目の80年に二塁の定位置を確保すると、翌81年には打率.357の大活躍でリーグ優勝、日本一に貢献。その後も巧みなバットコントロールから広角に打ち分けてヒットを量産。84年と87年には首位打者に輝いている。華麗な二塁守備への評価も高かった。90年からは故障もあって代打中心の起用となり、94年限りで現役引退。1651試合、1696安打、92本塁打、628打点、55盗塁、打率.304。


川口和久/かわぐち・かずひさ●1959年7月8日生まれ。鳥取県出身。鳥取城北高からデュプロを経てドラフト1位で81年に広島入団。3年目の83年に15勝、リーグ3位の防御率2.92。84年から10年連続で規定投球回に到達、86年からは6年連続で2ケタ勝利を挙げ、80年代の広島投手王国をけん引。三振か四球かの荒々しいピッチングで、93年まで11年連続で100奪三振以上を記録し、リーグ最多奪三振3回も、最多四球は6回を数えた。95年にFAで巨人へ移籍、98年限りで現役引退。通算成績435試合登板、139勝135敗4セーブ、防御率3.38。
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