1979年、所沢に本拠地を移転したライオンズは西武となり、82年に初優勝。そこから80年代は84、89年以外でVと圧倒的な強さを誇った。ライオンズの時代とも言える80年代。内野守備・走塁コーチだった伊原春樹氏、キャプテンを務めた石毛宏典氏、そして88年に中日から移籍し、「二番・右翼」として真価を発揮した平野謙氏に、当時の思い出話を語り合ってもらった。 取材・構成=小林光男 写真=榎本郁也、BBM 試合前のダッシュ
伊原 ケン(平野)、ハチ(石毛)、久しぶりだな。俺はいつも言っているんだよ、自宅のこの柱はケン、こっちはハチ、あっちはあの選手のおかげだ、と。今の自分があるのも西武黄金時代で選手の頑張りがあったから。足を向けて寝られないよ(笑)。
石毛 本当ですか?(笑)。でも、伊原さんは鬼でしたよ。試合前、第3球場で50メートル走を5本。設定タイムをクリアしないと1本とカウントされず、できるまでやり直しをさせられる。「伊原さん、これからゲームがありますから」と訴えても、「いいから走れ!」と。清原(
清原和博)なんか、ブーたれて走っていましたよ(笑)。なんで、あんなに走らせていたんですか。
伊原 自主性に任せてアップさせても、なかなか全力で走らないだろ。それだと、いざゲームで内野安打になりそうな当たりのとき、いきなり120パーセントの力で走ると必ず足をブチッとやってしまう。足腰を鍛えたり、ケガを防止したりする意味があったんだよ。だから、みんな長く現役ができただろ?
平野 僕は88年に中日から西武に移籍したでしょ。ぬるい球団で好き勝手やっていたから、西武でたくさん走らされてびっくりしましたよ(笑)。まず自主トレ。50メートル100本くらいを課されたんですけど、みんな平気な顔してワイワイ言いながらやっている。中日じゃ、絶対にブーブー言いますよ。でも、僕は33歳と年齢的に上のほうで、あるコーチに「平野、無理するなよ」と言われて、カチンときたのを覚えています(笑)。
石毛 確かに走り込みがきいて、夏バテはしなかった。ほかのチームは主力がケガをすることがあったりしたけど、西武はそんなことない。だから、8月以降の勝率もすごく良かったと思います。
伊原 そうだよな。シーズン終盤に力を発揮することが多かった。ケンはほかにも西武の“厳しさ”を実感することがあっただろう。
平野 あるとき無死二塁で打席に入って、引っ張って走者を進めないといけないと分かっていたけど、相手が外にばかり投げてくる。守備を見ると三遊間が空いているから、「いいや」と思ってそこを狙い打って一、三塁になったことがありました。でも、ベンチに戻ったとき、打撃コーチに「あの場面はアウトになってもいいから引っ張ってくれ」と。内心、「ヒットになったからいいじゃん」と思ったけど、でもちょっとズレたら遊ゴロだったかもしれないから確率の高いことをやらないといけない、と。でも、そのあとは同様の場面でバントばかりでした。引っ張れないと思われたかな(笑)。
石毛 打撃陣はつなぐ意識が徹底されていた。場面によっては四番の清原だって、バットを短く持って逆方向に打って走者を進めようとしていましたからね。
打率が3分は違う!?
伊原 88、89年は一番・ハチ、二番・ケンの並び。九番だった発彦(
辻発彦)の出塁率が上がって、90年から一番になったけど初回、発彦が出塁するとほぼケンはバント。発彦が盗塁に成功して二塁に進んでもバント(笑)。どっちにしても、発彦が出塁すればバントだったね。
平野 だから変な話、伊原さんの・・・
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