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80's バファローズの記憶

奇跡への号砲となったブライアントの4連発【1989年10月12日】

 

1980年代の最終年に生まれた名シーンが、ブライアントによる「4連発」だ。中日の二軍でくすぶっていた前年途中に近鉄へ移籍し、驚くべき打棒を発揮し始めた助っ人。猛牛軍団を歓喜の瞬間へと導いた。
写真=BBM

「10.19」の悔し涙を力に変えて


自力優勝が消滅しても


 前年の1988年10月19日、近鉄は川崎球場で行われるロッテとのダブルヘッダーに連勝すればリーグ優勝、一つでも負けるか引き分ければ、西武の優勝が決まるという、天下分け目の状況を迎えていた。1試合目、同点の9回に梨田昌孝の勝ち越し適時打により近鉄が勝利する。しかし2試合目は延長10回時間切れドロー。「試合開始から4時間を経過した場合は、そのイニング終了をもって打ち切り」という規定に泣いたのだった。

 この「10.19」がまるで長編ストーリーの前編だったのかと思えるほど、89年のペナントレースは劇的な展開となる。そのフィナーレに向かう最大のドラマが「10.12」のダブルヘッダーで、伝説として語り継がれることになる「ブライアント奇跡の4連発」だ。

 このシーズン、近鉄は故障者の続出に加え、主砲・ブライアントは22試合連続三振の大スランプもあり、いきなり出足でつまずいてしまう。「オレのスランプをマスコミは面白がっているのか? 調子を崩したときはその話ばかりだ。寂しいよ。インタビュー? ノーだ」。主砲はいら立ち、口にチャックをしてしまうほどだった。

 対する破壊力満点の“ブルーサンダー打線”を擁する新生オリックス・ブレーブスは、開幕8連勝を飾るなど、早くも独走態勢を築いていく。6月終了時点で、2位の近鉄とは8.5ゲーム差と大きな差がついていた。

 それでも夏場に入り、近鉄はブライアントの復調もあり猛烈な追い上げを見せ、オリックス、西武との三つ巴の混戦に突入していく。8月に一度、首位に立った近鉄だったが、約1カ月守り抜いたその座を西武に明け渡すと、9月27日の西武戦(藤井寺)に敗れ、このシーズン初めて3位に転落。「まだ終わったわけじゃない。(最終戦の)130試合目までベストを尽くすのが、われわれの使命だ。それができない者は、ユニフォームを脱げばいい!」。これは前年にも何度か飛んだ仰木彬監督の檄(げき)だが、「絶望」の二文字も忍び寄ってくる。そして、優勝争いから最初に脱落したと“思われた”のは、10月5日のオリックス戦(藤井寺)に敗れて自力優勝が消滅した近鉄だった。

 その日に近鉄グループの総帥・佐伯勇が死去。「常に優勝を争えるチームであれ」が口癖だった。日本一になった近鉄を一度も見ることなくこの世を去ったオーナーのために──。突然の訃報が、背水の猛牛ナインに一体感をもたらすことになる。

 喪章を着けて戦った翌6日のオリックス戦(藤井寺)から・・・

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