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80's カープの記憶

連夜の劇弾。背番号0「ミラクル男」の独白 長嶋清幸[元広島ほか/外野手]

 

3度のリーグ優勝、2度の日本一と、1980年代に抜群の強さを誇った広島にあって、その勝負強さの象徴的存在が、背番号0の長嶋清幸だった。84年の9月15、16日の2試合連続サヨナラ弾の離れ業が「ミラクル男」の異名を呼んだ。何度も奇跡を呼んだ男の勝負強さの秘密と、80年代の広島の強さの理由とは──。
構成=藤本泰祐 写真=BBM

これが、史上4人目となった2試合連続サヨナラ本塁打の1本目。ここから長嶋の名は、「ミラクル男」として響き渡ることになる


契約金だけもらえれば!?


 広島が、あの「江夏の21球」で初の日本一に輝いたのが、1979年。そしてそのオフ、長嶋はドラフト外で、そのチャンピオンチームに加わることになる。のちに主力選手となる長嶋だが、プロ生活のスタートは、それを予見させるものではなかった。

 私は入団がちょうど1980年なのですが、実はウチは家族ぐるみで阪神ファンでもあったので、もともとは阪神に、ということで、話が決まっていたんです。ところがその年、阪神はドラフト1位で岡田(岡田彰布)さんが指名できて、当時の小津(小津正次郎)球団社長が「そんな海のもんとも山のもんとも分からない選手はいらん」と言い出したらしくて。ドラフト会議が終わってすぐ、広島の木庭(木庭教)スカウトが実家に来てくれて。私も昔は結構ヤンチャだったのですが、「こういう子は大阪とか、大きな街に出したらロクなことにならんから、狭い広島のほうが絶対にいいです」って親が口説かれて、「じゃあぜひよろしくお願いします」って。「エエッ?アンタら阪神ファンだったんじゃないの!?」みたいな話で(笑)、ドラフト外で入団しました。

 当時の広島は、79年に初めての日本一になっていますから。正直言って「自分が成功するわけない」と思っていました。ですから契約金だけもらいに行ったようなプロ入りで、「3年だけ頑張って、ダメだったらやめる」というぐらいの気持ちでしたね。

 それでも1年目から一軍に上がることができて、地元の静岡でプロ初ホームランを打って(7月17日)。ところが、オールスター期間のナイター練習で守備練習をしていたときに、終了1分前のところでフェンスに激突して足首を骨折してしまって。その年の日本シリーズはベッドの上で見ることになりました。あれは悔しかったですね。

 若手時代は、練習はやりましたよ。僕らの時代は携帯ゲームもなかったし、練習しかやることがなかった。それに、高橋慶彦さんというお手本がいましたからね。毎日、お風呂に入る前にも必ずバットを振ってから入るし、外出するときも必ずバットを振ってから行く。それを見て「やっぱり一流のプロというのは、まずやるべきことをやっているんだな」という認識を得たわけです。そういう練習をする人がしっかり答えを出したわけですから、これはチームの伝統になっていきますよね。

 83年から背番号を「0」にしたのは、ひとケタ番号にあこがれていたところに、メジャーで背番号0を着けていたアル・オリバーが首位打者と打点の2冠王になったんですね(82年、エクスポズ)。それで古葉(古葉竹識)監督に聞いてみたら「面白いな、それ」となって。83年はチームのスローガンまで「スタート フロム ゼロ」になりましたからね。あのときは、カメラマンの方に背中ばかり撮られてね。「顔が見えるように振り向いてください」って、「俺はお化けじゃないんだから、首は180度回りませんよ」って(笑)。

 その年からレギュラーになりましたが・・・

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