当時は広いとされた横浜スタジアムで軽々とオーバーフェンスする打撃からつけられたあだ名は「オバQ」。放物線を描いて飛ぶ打球が歓声を呼んだ。ホエールズ打線の中軸を担った和製大砲は、当時を「必死だった」と振り返る。 無我夢中で必死の時代
私のプロ入りは1973年。入団当時はこの世界でやっていけるか不安で仕方がなかった。それでも苦労しながら3年目にやっとファームで首位打者と打点王のタイトルを獲ることができた。4年目の76年に一軍に昇格し、少し打てるようになったのはボイヤーさん(元大洋、当時コーチ)の存在が大きかった。助言をくれるだけなく、トレードで放出される可能性があった私をチームに引き留めてくれたり、調子が上がらずに二軍行きが決まっていたのに、そうならないよう面倒を見てくれたんだ。そのおかげで1年間一軍でプレーすることができ、自信がついた。そして、5年目にようやく「これだ!」という打ち方が見つかって、77年の打率.302、35本塁打という成績につながった。
自己最多の36本塁打を打った80年ごろから四番に定着し始めた。それ以降、6年連続で20本塁打以上を放って打撃が確立していった時期とも言えるかもしれないけど、当時は無我夢中だったね。手応えを感じたシーズンもあったけれど、途中でケガをしてしまったり、守備が得意ではなかったから打撃の調子が落ちるとスタメンから外されて、フルシーズンで打席に立てないこともあった。
チームは勝てなかった。10年間でAクラスは
関根潤三監督のときの1度だけ(83年3位)。選手たちは「優勝したい」と口では言っていたけれど、内心は「厳しいよな……」と感じながらプレーしていたと思うよ。とにかく選手層が薄く・・・
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