入団3年目の昨季はチームトップの11勝をマークし、ジャイアンツの先発陣を背負うべき存在へと成長した。ヒョロヒョロだったサウスポーがプロへの道を切り開く土台をつくった高校時代を、恩師が振り返る。 取材・構成=杉浦多夢 写真=BBM 高橋の所属していた友部シニアはあの当時、強かったんですよ。監督の原田(
原田明広、元巨人)とはよく知った仲ですし、気になる選手がいましたから見に行ったりもしました。そのときに原田が「将来的に面白いと思うんだよね」と言っていたのが高橋です。確かに投げ方はきれいだし、球の質もいい。まだヒョロヒョロでしたし、それほど大きな期待をしていたわけではありませんでしたが、1年の夏には実力でベンチ入りを勝ち取りました。
高橋の同級生に小林大(国際武道大-エイジェック)というやはり左投手がいました。この2人がいいライバルとして切磋琢磨しながら、チームの二枚看板になっていきます。ただ2年の春はよかったのですが、夏が厳しかった。高橋に背番号1を託して抑えとして起用したのですが、ことごとく勝負どころでつかまってしまったんです。
西東京大会では多摩大聖ヶ丘高との4回戦で小林が8回までゼロに抑えて2対0で勝っていました。9回に2人ランナーを出したところで高橋に交代したらタイムリーと押し出し四球であっという間に同点にされ、さらにボークで逆転(笑)。その裏に今は巨人で育成の
勝俣翔貴がサヨナラヒットを打ってかろうじて勝ったのですが、「危なかった」という意味で記憶に残る試合です。
次の永山高との5回戦は、抑えではダメだということで高橋を先発させたところ、2回に2点を先制されてすぐに小林に交代。創価高との準々決勝では・・・
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