週刊ベースボールONLINE

訃報

平野光泰氏(近鉄)逝去 気持ちでバットを振る“ガッツマン”

 

ガッツむき出しの泥臭いプレーでトップバッターとして1979、80年の近鉄連覇に貢献した平野光泰氏が9月9日に兵庫・姫路市内の病院で死去していたことが分かった。74歳だった。葬儀は家族葬にて執り行われた。

80年、広島との日本シリーズでは26打数9安打、打率.346で優秀選手賞を獲得した[写真=BBM]


 近鉄を率いた闘将・西本幸雄監督をして「アイツは形で打つというより、気持ちでバットを振っている」と言わしめた平野光泰。パンチパーマがトレードマークで、付いたニックネームは“ガッツマン”だった。

 1972年、クラレ岡山からドラフト6位で近鉄入団。同期には1位・佐々木恭介、2位・梨田昌崇(現昌孝)、4位・羽田耕一らがおり、近鉄史上希(まれ)に見る黄金世代だった。平野は77年、規定打席に到達。翌年から一番に定着し、パンチ力のある打撃で猛牛打線をけん引した。フォームはお構いなしの気迫のスイングがセールスポイント。“打撃の神様”川上哲治も、その打撃について「真ん中高めの球を“大根斬り”でスイングしたときなどは、ほれぼれするほどだ」と称賛していた。

 明星高3年時にはエースとして春夏甲子園に出場。その肩を生かした中堅守備でも魅せ、ダイヤモンドグラブ賞を2回受賞した。近鉄が前期優勝を決めた79年6月26日の南海戦(大阪)での“魂のバックホーム”は今もなお語り草だ。

 勝つか引き分けで優勝、負ければ2位・阪急に逆転の可能性が残った一戦、同点の8回裏二死一、二塁から阪本敏三の緩い打球がセンター前へ。誰もが南海の勝ち越しと思った瞬間、猛然とチャージしてボールを捕った平野が火を吹くようなバックホーム。「白いボールがひと筋の光のように、どんどん大きくなった」と捕手の梨田昌孝が証言した、ど真ん中ダイレクトの“奇跡の返球”でタッチアウト。球場は一瞬の静けさのあと、大歓声が鳴り響き、生還を確信していた二走・定岡智秋はしばらくぼう然としていた。西本監督も「もう一度やってみろと言っても、二度とできないだろう。それほど奇跡であり、神業だった」と語っている。

 平野のバックホームで前期優勝を飾った近鉄は後期優勝の阪急とプレーオフで対戦。リードオフマンとして出場した平野は第2戦(大阪)では8回裏にダメ押しの2ランを放った。これで王手をかけた近鉄は第3戦(西宮)にも勝って、3連勝で球団史上初のリーグ優勝に輝いている。

 同年、広島との日本シリーズ第7戦(大阪)では9回裏二死二、三塁から故意四球で「江夏の21球」のドラマの一員となったが、江夏豊とは高校時代に因縁があった。2年夏の大阪府大会で1学年上の江夏がいた大阪学院大高と対戦。試合には敗れたが、プロ注目の左腕からランニング本塁打をマーク。江夏は「高校3年間でホームランを打たれた記憶はあれだけ」と振り返っている。

 80年はキャリア唯一の全試合出場で、7月17日の阪急戦(西宮)ではサイクル安打も達成。さらに、その打棒が輝いたのは、リーグ優勝を決めたロッテとのプレーオフ第3戦(大阪)だった。2連勝で王手をかけた近鉄だったが、3点ビハインドの4回裏、先頭のアーノルドがソロ本塁打で1点を返すと、これに呼応するかのように平野が3ラン。その後は打線が爆発して結果的には圧勝となったが、この3ランが決勝弾となり、近鉄は球団史上唯一のリーグ連覇を達成している。

PROFILE
ひらの・みつやす●1949年4月23日生まれ。大阪府出身。明星高からクラレ岡山を経て72年ドラフト6位で近鉄入団。77年からセンターのレギュラーとなり、初の規定打席到達。78年5月からは一番に定着し、79年はダイヤモンドグラブ賞を獲得する活躍でリーグ優勝に貢献。80年はキャリアハイの23本塁打を放つなど連覇の斬り込み隊長としてチームをけん引し、2年連続ダイヤモンドグラブ賞に輝く。同年の日本シリーズでは優秀選手賞。85年限りで現役引退。通算成績は実働14年、1183試合、1055安打、107本塁打、423打点、106盗塁、打率.264
HOT TOPICS

HOT TOPICS

球界の気になる動きを週刊ベースボール編集部がピックアップ。

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング