今年でプロ24年目を迎えるヤクルトの石川雅規。今年で45歳となったが、常に進化を追い求める姿勢は変わらない。昨季まで積み上げた白星は186。200勝も大きなモチベーションだ。歩みを止めない“小さな大エース”。ヤクルトを愛するノンフィクションライターの長谷川晶一氏が背番号19に密着する。 「高津監督退任」報道を受けて

今シーズン限りで退任するヤクルト・高津監督
2025(令和7)年9月1日、スポーツ紙各紙が一斉に「高津監督退任」を報じた。現役時代はもちろん、一軍投手コーチ、二軍監督、そして一軍監督として、常に
高津臣吾とともに過ごしてきた石川雅規は、この報道をどのように受け止めたのか?
「言葉にならないというのか、何とも言えないというのが正直な思いです……」
口数は少ない。その根底には、「もっと自分が頑張っていれば……」という無念の思いが渦巻いているからだ。石川がプロ入りした2002(平成14)年、高津はまだ現役だった。その後、メジャーリーガーとなり、再びスワローズに復帰したものの、さらに韓国、台湾、そして日本の独立リーグと、次々と環境を変えながら現役を続け、2012年に引退した。
「2014年に高津さんがヤクルトに戻ってきたときは嬉しかったですね。《兄貴》というのはおこがましいですけど、現役時代には、石井(
石井弘寿)コーチ、(
五十嵐亮太)亮太と一緒によく食事をしていました。親しかった先輩と、再び同じユニフォームを着られるのはやっぱり嬉しいことでしたから」
石川がプロ入りして最初に衝撃を受けたのが、ブルペンの隣で投げる高津の精緻なコントロールだった。左投げと右投げの違いもある。ピッチングフォームの違いもある。それでも、学ぶべきことは多かった。グラウンドで、あるいは食事の場で、石川は多くのことを高津から吸収していったのだ。
「現役時代は言葉でいろいろ教えるというよりも背中で引っ張るタイプだった高津さんが、コーチとして戻ってきたときには、積極的に多くの選手に声がけしているイメージに変わりました。僕自身も、いろいろアドバイスをもらいました。すごく役に立ったのは、悪いときだけでなく、調子のいいときも、“今はこうなっているぞ”と指摘してくれたことです。日頃から選手のことを見ているから、その違いに気がつくんです」
高津からはいろいろな指導を受けた。しかし、「いまだにマスターできないことがある」と、石川は白い歯をこぼす。
「例えばシンカーを投げるとき、普通に投げたら打球はフェアゾーンに飛んで、ヒットになる可能性が生まれてしまう。でも、少しだけ抜いて投げることができれば打球はファウルになってカウントを稼ぐことができる。シンカーの抜き方についてアドバイスをもらったことがあるんですけど、すごく高度な技術なので、僕はいまだにマスターできていません(笑)」
在任6年、高津監督がチームに遺したもの
世界中がコロナ禍に揺れていた2020年、ペナントレースの開催時期は何度も延期され、二転三転の末、ようやく6月19日に決まった。ようやく実現した開幕戦は無観客試合となった。高津臣吾監督の初陣、先発マウンドを託されたのが石川である。
「高津さんは、“監督に就任したときから、開幕は石川に決めていた”と言ってくださいました。すごく嬉しかったと同時に、言葉にできない重みも感じました。もちろん、意気に感じたし、泣くほど嬉しかった。しかも無観客という異様な状況でしたから、あの日のこと、そして高津監督からの言葉は忘れられないです」
この年は最下位に終わった。しかし、翌21年には日本一、22年にはスワローズとしては
野村克也以来となるリーグ連覇を達成した。しかし、石川の表情は複雑だ。
「2015年に優勝したとき、僕は13勝を挙げました。あのときは優勝の輪の中心にいた実感がありました。でも、21年は4勝、22年は6勝で成績としては必ずしも満足はしていません。もちろん、自分なりに精一杯頑張ったつもりですけど、“優勝は嬉しいけど、ちょっと……”というのが正直な気持ちですね」

今シーズンは9月27日現在、2勝にとどまっている石川
その後、23年、24年、そして今年とチームは低迷した。監督就任から6シーズン。ついに高津がチームを去る。長年にわたって身にまとっていた「Swallows」のユニフォームを脱ぐ。「高津野球」とは何だったのか? 高津臣吾は指揮官として、スワローズに何を遺したのか? 石川が、この6年間を振り返る。
「かつて、野村(野村克也)監督がヤクルトで実践した《野村野球》を、現代の野球と照らし合わせながら、改めて継承しようとした。そんなことが言えると思います。高津監督になって、古田(
古田敦也)さんが臨時コーチとしてヤクルトに戻ってきた。古田さんもまた、野村監督の考えを口にしていました。それを聞いて、ようやく答え合わせができたような気がしましたから」
石川は「答え合わせができた」と口にした。どんな問いに対する、どんな答えなのか?
「僕がプロ入りしたとき、古田さんとバッテリーを組んでいました。あの頃はまだ《野村野球》がチームに残っていました。古田さんからはいろいろなことを教わりました。当時の僕は、その意味をよく理解していないまま、ただ古田さんのミットに投げ込んでいるだけでした。でも、あれから20年が経過して、改めて古田さんのミーティングを聞いていると、当時のことがよみがえってきました。明らかに、あの頃よりもその理解度が増していました。古田さんが話していたことは、野村野球に基づいていました。それは、現代野球にも応用できるものでした。高津監督が目指したものは、野村野球を現代版にアップデートすることだったんじゃないか。そんな気がしますね」
プロ25年目に向けて――石川雅規の現役続行宣言

現役続行を決めた石川。見据えるのは勝利のみだ
石川雅規の2025年シーズンも、高津監督退陣とともに終了する。石川にとってのプロ24年目は、どんなシーズンだったのか?
「昨年は1勝しかできなかった。今年は春先に2勝を挙げたけど、その後は打たれる試合も多かった。いくらファームで抑えたとしても、一軍で抑えなきゃ意味がない。“もっとやりようがあったのかな?”と思いながら、もがき続けた一年でしたね」
8月21日、神宮球場で行われた
読売ジャイアンツ戦では2回を投げて6失点でKOされた。それから1カ月が経過してもなお、石川の無念は晴れない。
「あの日は、今季2度目の田中(
田中将大)選手との投げ合いだったので、“絶対に先にマウンドを降りないぞ”と思っていたのに、ランナーを溜めてロングを打たれるというダメなパターンで降板してしまった。しばらく寝られなかったし、いまだに悔しいし、“次はどうしたらいいだろう?”と、ずっと考え続けていますね」
石川は「次は」と言った。彼が常々口にしている「心のスタミナが切れるときがユニフォームを脱ぐとき」という言葉が頭をよぎる。単刀直入に尋ねた。
――「次は」ということは、まだまだ心のスタミナは切れていないということですか?
何の迷いもなく石川は言う。
「来年もやりたいです。球団が必要としてくれるのであれば、来年も現役を続けたいです。やらせていただけるのであれば、ぜひ続けたい。チャンスがある限りユニフォームを着ていたいというのは、野球選手なら当然の思いです」
石川の「現役続行」宣言だった。2026年、46歳となる石川はプロ25年目の来季も、球界最年長選手としてマウンドに立つことが決まった。「いつまで現役を続けるつもりなのか」とか、「後進に道を譲るべきではないか」という心無い声が耳に入ることもある。それでも、石川は現役を続けることを決意した。
「いろいろな声があるのは知っています。理解出来るご意見です。でも、結果でそれを見返したい。残りの野球人生をがむしゃらに、そしてきちんとチームにも貢献する。燃えていますよ。とにかく結果がほしいです」
そして、石川はこんな言葉を口にした。
「最近はしばしば、“オレ、どこまで投げることができるのかな?”と思いますよ。勝ちたい……自分との根比べですよ……」
長きにわたってともに過ごした高津がチームを去る。出会いと別れの時期が、また新たにやってくる。プロ24年目が終わり、そして25年目のシーズンが始まろうとしている。石川の根比べは、さらに続く――。
(第四十四回に続く)
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