1958年に創刊された『週刊ベースボール』が通算4000号を迎えることを記念したカウントダウン企画の第3弾。プロ野球チームの優勝を伝えてきた『週刊ベースボール』が接戦だったペナントレースの激闘を振り返る。中でも、史上最高の試合として語り継がれる伝説の「10.19」について、じっくりとお伝えしよう。 写真=BBM 
ダブルヘッダー第2戦が終了し、川崎球場を満員にしたファンにあいさつする近鉄・仰木監督
なぜ、その日を迎えたのか
今でも語り継がれる伝説の2試合。1988年10月19日のロッテ対近鉄(川崎)のダブルヘッダー「10.19」とは、どのような2試合だったのか──。 昭和が終わろうとしていた1988年10月5日の
日本ハム戦(東京ドーム)に勝った時点で近鉄は
西武の勝率を1厘だけ上回り、ゲーム差ゼロながら首位に立ったが、同6日の移動日を挟み、同7日から19日までの13日間で「所沢→大阪→川崎→大阪→川崎」と移動しながらの15試合(ダブルヘッダー2日間を含む)という超過密日程が組まれた。
一方の西武は10月7日からのシーズン最後の10試合を8勝2敗で終え、同16日に全130試合が終了。73勝51敗6分、勝率.589。この時点で近鉄と0.5ゲーム差の首位だったが、優勝は確定していない。3日間で4試合が残されていた近鉄がその4試合を3勝1敗なら75勝52敗3分、勝率.591となり、西武の勝率を上回るからだ。つまり、優勝までのマジックナンバー「3」が2位の近鉄に点灯という、異例の事態だった。近鉄の残りの4試合は、西宮での阪急戦、川崎でのロッテ戦、そして川崎でのロッテとのダブルヘッダー。ここで3勝するのが、優勝への条件だ。
まずはエース・
阿波野秀幸を阪急戦の先発に立てたが、阪急・
星野伸之との投げ合いは1対2で敗れた。絶対に負けられない試合で、エースが痛恨の完投負け。残りの3試合に全勝するしか逆転優勝への方法はない。ハードスケジュールで満身創痍の近鉄ナインだったが、とにかくロッテの当時の本拠地・川崎球場の2日間での3試合を総力戦で全勝するしかなくなった。
同18日は
ブライアントが2本の2ラン本塁打を放ち、12対2で近鉄が大勝した。近鉄とロッテでは、勝利へのモチベーションが違う。悲壮感さえ漂わせながら強行日程を必死で勝ち抜く近鉄を、日本中の野球ファンが注視していた。西武ファンを除けば「常勝・西武よりも、たまには近鉄の優勝を見たい」という風潮もあったのは否定できない。
そして、近鉄にとってシーズン最後の2試合が開催される10月19日がやってくる。「10.19」として後世まで語り継がれる、運命のダブルヘッダーの日が──。
第1試合は、15時00分ちょうどにプレーボール。初回、ロッテは先頭打者の
西村徳文が右安打で出塁し、三番・
愛甲猛の17号2ランで先制。
近鉄は5回、
鈴木貴久が20号ソロを放ち1点差に迫る。ロッテからは7回に
佐藤健一の適時二塁打が出て3対1と突き放したが、近鉄も粘る。8回に
村上嵩幸の2点二塁打で同点に追いついたのだ。
だが、優勝するには引き分けではダメ。しかも当時のルールで、ダブルヘッダーの第1試合は9回が終わった時点で同点なら打ち切り=引き分け、と決まっていた。どうしても、9回表に勝ち越した上でその裏を抑えないと、シーズンが終わる。先頭の指名打者・
オグリビーは遊ゴロに倒れ、一死。ここでベテラン・
淡口憲治が打席に入った。
「半分はあきらめていましたね。ここまで来たらなるようにしかならないという心境でした」と淡口は振り返る。それでも右翼手の頭上を越える二塁打を放ち、一死二塁とチャンスをつかんだ。ロッテの投手は二番手・
牛島和彦に交代。続く打者は鈴木だ。
「ところがですね、
佐藤純一という選手が、二塁走者の僕の代走に出たのです。続く鈴木がライトへヒットを打ったのですが、佐藤が三本間に挟まれ、アウトになったのですよ」(淡口)
現役最後の打席
挟殺プレーの間に打者走者の鈴木が二塁に進んだとは言え、点が入らないまま、9回二死。ここで近鉄は、このシーズン限りでの現役引退を決めていた
梨田昌孝を代打に起用し、バッターボックスに送った。
梨田は詰まりながらもセンター前に落とす意地のヒットを放つ。二塁走者・鈴木は迷わず本塁に突入。タイミングはアウトでもおかしくなかったが、ロッテの捕手・
袴田英利の体を避けるように回り込んで間一髪、セーフとなる。勝ち越し成功! 飛び出してきた
中西太コーチと鈴木との転がりながらの歓喜の抱擁は、球史に残る名シーンとなった。
結果的に、この打席が梨田にとって・・・
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