昔の球団は「働かせてやっている」の“お上意識”が強く選手が犠牲に
先日、「週刊ポスト」(8月17・24日号)誌上の座談会に出席しました。相手は
ヤクルトの監督などを務めた
関根潤三さんと阪急などで350勝をマークした
米田哲也君。一番若い米田君で今年74歳ですから、いまの若い読者には、ジイサン座談会にしか映らんでしょうが、たしかに、昔話に花が咲いたというところではあったのですが、それでもね、現在につながる良い話もあったんですよ。今週はこの座談会をダシにアレコレ語ってみましょう。
関根さんというと、今の人は、ベンチでニコニコしている監督、ヒョウヒョウとしてとらえどころのない解説者(失礼!)というイメージでしょうが、この人、大変な選手だったんですよ。投げては65勝、打っては1137安打という完全な“二刀流”。オレは投手としても打者としても相手として戦ってきたから、この人の長所、欠点をぜ〜んぶ知ってます。
投手としては、あまり面白くない人だったなあ。スピードボールは法政時代に神宮球場に置き忘れてきちゃった感じで迫力のないことおびただしい。いわゆるひとつのヒョロヒョロ球。打者としては「よし!」という気になれんのです。でも、うっかりすると追い込まれてしまう。それでも、こっちはいつでも打てるや、で気楽に構えている。でも、これが落とし穴。フルスイングすると必ず失敗する。打てそうないい球でも、こっちが気負うと当たらんのです。そういうボールを投げました。フルスイングをさせないというのは、なかなかの武器ですよ。
米田君は速かったなあ。しかも、いいカーブがあるから好調な時は手がつけられない。この人の一番いいところはね、常に向かってくることです。関根さんの時とは、まるで違った緊張感が走った。オレはこういう投手は好きだったなあ。オレ流の表現で言うと「エイ、クソ!」のある投手だった。この「エイ、クソ!」が出るとね、彼のボールはオレの背中を通るんです。これは怖いですよ。このケンカ腰が彼の魅力だったなあ。
さてお2人の紹介はこれぐらいにして、いまにつながる話をしましょう。
74歳の米田君が一番若いのですから、3人とも日本がまだ貧しい時代に野球人生をスタートさせたワケです。意外だったのは、オレより3学年下で1956年に阪急に入った米田君の月給が3年前のオレと同額の3万円だったことです。甲子園には出ていなくても阪急と
阪神の間で二重契約問題を起こしたほど注目された投手でした。それでも3万円。当時の大学初任給の倍ぐらいだったそうです。いまなら1500万円のルーキーなら月給125万円。いまの大卒初任給は20万円ぐらいですから6倍強。米田君もようそれでやったよねえ。資金力は豊富なハズの阪急でも、その後もなかなか昇給させてくれなかったという。
1948年の移動風景。巨人、阪神、大陽、金星の4球団帯同での北海道遠征の車中だ。三等車で通路にも人が[写真=BBM]
当時はね、各球団に「働かせてやっている」という“お上意識”が強かったんです。だから・・・
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