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どうなる松井秀喜…

 

どうなる松井秀喜。その名が初めてファンに注目された90年夏を思い出してみよう。巨漢の1年生四番一塁手はノーヒットで初戦敗退

文・岡江昇三郎


 レイズを自由契約になった松井秀喜はどうなるのだろうか。彼の野球人生はジ・エンドとなるのだろうか。もし終わりがやってくるのなら、彼の野球人生のスタートはどうだったのかを思い出してみるのも、大げさに言えばこういうページの使命でもあるだろう。

 さて、松井の名が野球ファンに最初に印象づけられたのはいつだったろうか。それは、90年の夏だった。石川大会を勝ち抜き甲子園に駒を進めた星稜高では1年生が四番打者を務めていた。しかも、この1年生、入学の4月からすぐ四番を打ったというのだからすごい。当時、学校から発表された松井のデータは184センチ、89キロ。右投げ左打ちの一塁手。松井は、1年生四番とその巨体で、まず注目された。

 星稜高が登場したのは、大会第7日の日大鶴ヶ丘高(西東京)戦。6回までは星稜が3対2とリードしていたが、7回にエースの山岸直がつかまって一挙4点を奪われ試合は決まってしまった。結局、3対7の完敗。四番・松井は、最初の打席は四球を選んだが、そのあと3打席凡退。四番の働きを見せることはできなかった。「県大会とは全然違うところ。カーブがまるで打てなかった。先輩に申し訳ない」が松井のコメント。当時は“ゴジラ”のニックネームもまだなく、初戦敗退でファンは松井のことをすぐ忘れてしまった。

 写真は入場行進中の星稜の15選手。あの両腕を肩の高さまで上げる星稜スタイル(この頃はこのスタイルが多かったようだ)。松井は左の列の先頭。「必ずまた来ます」の言葉を残して甲子園を去った松井だが、その言葉どおり、91年夏、92年春、92年夏と甲子園に3度出場。甲子園10試合で4本塁打をマークした。打率.344。安打数は11本だが四死球も11個。92年夏のあの明徳義塾高戦の5連続四球が半分近くを占める。
おんりい・いえすたでい

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