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日本のプロ野球チームが初めて着けた背番号。アメリカ人には“ナゾの背中”だったが、ソデと胸を見ればなんとか理解

 

文=大内隆雄



 今週号は、背番号の特集だが、日本のプロ野球チームが初めて背番号を着けたのが、この写真の、1935年(昭和10年)の巨人である。巨人は、この年の2月14日、渡米遠征に出発、7月16日の帰国までに109試合を行ったが(75勝33敗1引分)、その間、この奇妙な(?)ユニフォーム姿で戦い続けた。

 なぜ背番号を洋数字ではなく漢数字にしたのか、これには諸説あってよく分からないのだが、「漢数字にすれば、『あの番号らしきものは一体何だ?』とアメリカ人が興味を持ってくれるのでは」というので漢数字にしたという説がある。もしそうだとすると、これは失敗で、アメリカの観客は「背中の変なものは何だ?名前か?プラスとマイナス?」といぶかしがり、日本式の背番号だとは理解してくれなかったという。

 ただし、右ソデには洋数字の番号が着けられていたので、観客はこれで識別したと思われる。なお、左ソデには「日本」の文字が着けられていた。これは全選手共通だから、球団名だと判断されたかもしれない。胸には「TOKYO」と日の丸を組み合わせたエンブレムがあった。ちなみに帽子のマークは「T」1文字。「T」と「TOKYO」だから、「東京からやってきたチーム」というのを強調したかったのだろう。ニックネームが「東京ジャイアンツ」と決まる前のものだから、こんなユニフォームになったワケだ。

 中央ソフト帽が市岡忠男総監督で、その左が沢村栄治、右はスタルヒン。沢村?彼は14番ではなかったか?14番なら前列の右から2人目にいるではないか。実は、沢村が14番になったのは、翌36年からで、この年は17番。14番は江口行雄内野手。また、スタルヒンは18番で、翌年、江口の移籍で沢村が14番となったことでスタルヒンが17番に繰り上がった。まあ、当時のことだから背番号へのこだわりは、ほとんどなかった。渡米チームの投手陣は、年齢順、キャリア順に若い番号から着けていったようで、一番若いのが8番の水原茂(内野手ではなく投手契約だった)、次の9番は青柴憲一……という具合。沢村もスタルヒンも番号が若くなったのだから文句はなかっただろう。
おんりい・いえすたでい

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