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この2人はだれでしょう?ともに“ルーキー”。必死で教え、教わる44年前の近鉄キャンプでの1枚です。ちょっと難しいかな?

 

文=平野重治



 44年前と言えば、あの浅間山荘の事件があった1972年。2月28日、1500人の武装警官が、立てこもる連合赤軍を“撃破”して、10日間の攻防戦は終わった。

 そんな大事件をよそに、プロ野球各球団は、キャンプでのトレーニングに励んでいた。なかでも、ルーキーたちは、新しい世界に飛び込んで無我夢中の日々。この年、どんな話題の新人がいたかというと、亜大のエース・山本和行阪神1位。立大のエース・横山忠夫巨人1位あたり。割合地味なドラフトで(もちろん、71年11月19日のドラフト会議当日時点で)、近鉄の2位指名となった写真の52番をつけた浜田高出の選手などは、ほとんど注目されていなかった。

 もうお分かりでしょう。そう、梨田昌孝(当時昌崇)楽天監督の若き日の1枚なのです。このドラフト、下位指名に人材が豊富で2位には梨田のほか早大・中村勝広(前阪神GM、故人)が阪神。3位に四国銀行→ロッテ弘田澄男。4位に柳川商高→西鉄の若菜嘉晴、三田学園高→近鉄の羽田耕一。6位に神戸大丸→巨人の小林繁、大昭和製紙→ヤクルト安田猛といった具合。決して地味なドラフトではなかったのだ(小林は72年シーズン後に契約)。

 さて、梨田の右のモミアゲの長いコーチは?この人も“新人”で、近鉄の打撃コーチに就任したばかり。69年限りでアトムズ(翌年からヤクルト)を退団して評論家生活を送っていたのだが、3年ぶりの球界復帰。専任コーチは初めてだった。しかし、その人、豊田泰光は近鉄という球団に我慢ができなくなり、1年で退団。技術指導以前に、環境面で問題があり過ぎた、と豊田から聞いたことがある。

「若い選手がかわいそうだった。プロの練習環境、生活環境じゃなかった。オレは球団に文句ばかり言ってたよ」。梨田も1年目はともかく2年目に一軍の延岡キャンプのメンバーから外れたのが大ショックだった。「羽田(耕一)とこんなことなら近鉄に入るんやなかったとボヤキ合った」そうだ。そんな梨田が、いまや3球団で監督を務める野球人に。人生は面白い。
おんりい・いえすたでい

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過去の写真から野球の歴史を振り返る読み物。

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