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早いものでもう1月2日号。大昔のプロ野球は巨人マニラ遠征の壮行試合として1月1日から有料試合開催も

 

文=平野重治


「週ベ」のガツゴウ(業界用語です)は、もう1月2日号。早いものだ。早いといえば大昔、プロ野球は、もう1月に入場料を取る試合をやっている。1939年など1月1日に「元旦野球」をやっているのだから恐れ入る。この日から3日間、西京極球場と神戸市民球場に巨人、セネタース、金鯱の3球団が集合して「正月大会」と銘打って行った(巨人はその後、九州でもオープン戦を行っている)。

 もっともこの大会、巨人のマニラ遠征の壮行試合の意味合いもあったようだ。先々週号で触れたマニラ遠征である。巨人にとっては3年前の第2回渡米遠征以来の海外遠征。これは外務省の“強い要望”で実現したもので、40年の「満州シリーズ」のさきがけとなる国策に沿った海外遠征だった。フィリピン側が滞在費を全額負担。おかげで巨人は1万8000円の収益をあげたそうな。

 巨人は1月21日に出発。28日にカスタムズと第1戦を行い、9試合で7勝2敗の成績を残し2月24日に帰国した。日本なら極寒の時期だが、マニラは写真のように、暖かな日々。左から永沢富士雄岩本章水原茂楠安夫吉原正喜の各選手。水原のみが、白のスーツにネクタイ、そしてサングラスとキメまくっているのはさすが(水原は遠征チームの主将)。

 この遠征、四番打者の中島治康が不参加だった。1月17日の熊本での対ライオン戦で全治2カ月の大ケガをしてしまったからだ。38年秋のシーズンに、プロ野球の三冠王第1号(打率.361、10本塁打、38打点=38試合)に輝いた強打者。さぞや無念だったことだろう。

 巨人は、翌40年1月にもマニラ遠征を挙行したが、それには中島も参加(39年12月25日出発、40年1月25日帰国)。巨人は8勝2敗だったが、中島は1月11日の対マブア大戦(13対0)でリサール球場の左翼場外に大本塁打。日本人プレーヤーとしては初めての場外本塁打(9人目)。外野フェンスの向こうの壁に中島の名と日付がペンキで書き込まれたのはあまりにも有名だ。1月12日付の読売新聞は「中島記録的ホームラン」の見出しで、この一発を報じた。
おんりい・いえすたでい

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