報徳学園高、京産大、JR東海を経て入団したオリックスでは1年目に7勝の活躍。多くの経験を学生指導に落とし込んでいく構えだ[写真提供=京都産業大学野球部]
指導の基本は文武両道と人間形成
野球人生を切り開くきっかけとなった大学で、最大の恩返しが始まった。オリックス、
ロッテでプレーした
光原逸裕氏が京産大の監督に就任、母校の指揮を任された。
1998年、報徳学園高3年春のセンバツ2回戦(対横浜高)で救援し、1イニングだけだったが同世代の怪物・
松坂大輔(元
西武ほか)と投げ合った。当時着けていた背番号は10。練習量では誰にも負けないほど取り組んだが、抜きん出た存在にまではなれなかった。投手として大きく成長できたのは大学時代、勝村法彦監督の指導により、体の動かし方や姿勢づくりを学んでからだった。メキメキ力を伸ばすと、4年時は春秋を通じて関西六大学で個人タイトル獲得、秋にはエースとしてチームを21季ぶりの優勝へと導いた。JR東海を経てプロの世界へ、活躍を期待され1年目に7勝を挙げるも・・・
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