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野村克也の本格野球論

野村克也が語る「捕手兼任監督」

 

最初は頑として断った捕手兼任監督就任


 私が初めて南海の兼任監督に就いたのは1970年。当時、私は35歳だった。

 その前年、南海は通算23年指揮を執った鶴岡一人監督が退き、黄金時代の四番を担った先輩・飯田徳治さんが新監督となった。だが、あのころチームはボロボロだった。負け、負け続きで、どうしても勝てない。そこへ四番でキャッチャーの私が、大ケガだ。私もバカだった。意地になってランナーに体当たりし、鎖骨を折ってしまったのだ。おかげでオールスターを辞退する羽目になり、連続記録がすべて途絶えた。

 南海はダントツ最下位に終わり、飯田監督は辞任した。これは当時の新聞記事情報だが、あまりのチーム崩壊ぶりに、次期監督候補として声を掛けた外部の人間には、ことごとく断られたらしい。そしてある日、私は川勝傳オーナーに呼ばれた。そのときは、キャプテンの私に南海低迷の原因を聞きたいのだろうと思っていた。前の晩から答えを用意して、オーナー室に入った。ところがオーナーはこう切り出した。「野村君、監督をやってくれないか」

 私は断った。頑として断った。まだ34歳。南海の四番を打ち、正捕手の座をガッチリ守っていた。当時の選手年齢にしてみれば大ベテランでも、現役バリバリの身だ。しかも私はスタートがテスト生。一番下から這い上がってきたのだから、ボロボロになるまで現役を続けたいと願っていた。オーナーも、そんな私の人生観を知っていたはずだった。「監督をやるということは、選手を辞めろということですか?」と聞くと、「両方やってくれ」と言う。「ここまで落ちたチームを再建できるのは、君しかいない。急な話で戸惑うだろうが、2、3日考えて返事をくれ」

 私の2倍近い年のオーナーが平身低頭、頭を下げている。困った。常識的に考えて、監督をやりながら選手なんてできっこない…

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勝負と人間洞察に長けた名将・野村克也の連載コラム。独自の視点から球界への提言を語る。

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