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野村克也の本格野球論

野村克也が語る「川上哲治」

 

まさか同じプロの世界に入れるとは思わなかった


川上の打撃はまさに不動心だったと野村は言う


 川上哲治巨人軍監督が先月末、93歳で逝去した。私にとって川上さんは、少年時代からあこがれの人だった。

 川上さんがホームラン王に輝いた1948年、私は13歳。本格的に野球を始めたころだった。赤バットの川上、青バットの大下(大下弘)、物干し竿の藤村(藤村富美男)……。プロ野球は、まさに夢の世界だった。まさか自分が同じプロ野球選手になれるなんて、これっぽっちも思わなかった。ただただ、うらやましい限りで、テレビもない時代、ラジオにかじりつき、巨人-阪神戦を聴いていた。

 私が住んでいたのは、京都の片田舎。中学校の野球部でも、巨人ファンは私ただ1人だった。ほとんどが阪神ファンで、南海ファンが2、3人。ほかに松竹ファンの外野手が1人いた。

 なぜ巨人ファンになったかというと、単純に強かったからだと思う。もう一つの理由は、当時巨人のエースだった大友工さんが、私の住む町からほど近い兵庫県出石町の出身だったことだ。わが故郷・網野町は京都と兵庫の県境にあり、出石町までは車で小一時間ほどと近かった。

 あるとき大友さんが社会人チームのエースとして、オール網野町と試合をしに小学校のグラウンドにやってきた。軟式チーム同士の試合だったが、目の前で大友さんのピッチングを見て、子ども心に「すごいな」と思った。オール網野町はその剛速球に、まったく歯が立たなかった。だから私も初めは大友さんにあこがれ、ピッチャーをやった。

 ところが中学の野球部にもう1人エースがいて、彼に「お前は絶対にピッチャーの体型じゃない」と言われた。

「お前は胴長短足で座りがいいから、キャッチャー向きだ」

 試しにソイツの球を受けてやったら、「的が大きくて投げやすい」と褒められた。おだてられて、すっかりその気になり、「じゃあ俺、キャッチャーやるわ」とキャッチャーに転向した。当時は一番カッコいいのがピッチャー、次がキャッチャーだった。

 何がカッコいいかというと、レガースだなんだと1人だけ道具を付けるからだ。しかもいきがってプロテクターを外したままボールを受け、みんなにガッツがある、根性があると褒められて、またいい気になっていた。子どもなんて、そんなもんだろう。今はみんな、キャッチャーをやりたがらない。「なぜだ」と聞いたら、「立ったり座ったり、しんどいから」と言う。それぐらいの理由で、キャッチャーをやりたい子どもがいないんだな。

 何はともあれ、大友さんがその後巨人軍に入った影響で、私は巨人ファンになった。そこに『四番・川上』がいた・・・

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勝負と人間洞察に長けた名将・野村克也の連載コラム。独自の視点から球界への提言を語る。

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