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野村克也の本格野球論

野村克也が語る「自らの運命」

 

『裏西』でどんよりした5カ月間。おかげで甲子園は遠かった


 わが故郷・京都でもいよいよ、夏の全国高校野球選手権予選が始まった。前々号にも高校時代の話を書いたが、母校・峰山高校をはじめ、京都市外──特に郡部の学校は私たちの時代、とにかく夏の甲子園が遠かった。

 私が高3の夏、京都市外から西舞鶴高校が京都府予選で優勝。ところが当時は京都と滋賀の2県から代表1校、というシステムだった。西舞鶴は京津大会決勝戦で滋賀代表・八日市高校に敗れ、甲子園の夢は叶わなかった。

 そもそも私の生まれた京都府北部は、気候条件もあまりよろしくない。11月から3月までの約5カ月間、天気が悪いのだ。日が照っているかと思えば、雨がジャーッと降ってくるし、風は強い。こんな天気のことを、私たちは『裏西』と呼んでいた。グラウンドの作りも良くないものだから、雨が降るとあっという間に水たまりができて、グラウンドは使えなくなってしまう。

 冬は、雪も多かった。高校生ぐらいになるとあまり積もった記憶はないが、小学生のころ、積雪の中を歩いたことは覚えている。私は小学3年生から、新聞配達をしていた。朝6時ごろ新聞を抱えて配り始めると、目の前にはまだ誰にも踏み荒らされていない新雪が広がっている。道端の溝も雪に埋もれているが、だいたいどの辺にあるか分かっているから避けて歩く。しかし、気が付くと溝にズボッとはまっている。雪道というのは、面白い。自分では真っすぐ歩いているつもりでも、後ろを振り返るとグーンと曲がっている。あの直線感覚の錯覚は、なんなのだろう。

 われわれが子どものころの貧困は、今の貧困とはスケールが違った。食うのにも困って、国からの配給を受けていた。しかも、配給の主食は米ではなく、トウモロコシのカス。まるで、馬のエサのようだった。母親が工夫して、わずかなメリケン粉を混ぜ、膨らし粉を入れて蒸かしパンにして食べさせてくれた。栄養失調で倒れる人も結構いたようだ。

 今の某国を見ていると、私たちの子ども時代と重なるものがある。官僚だとか、上の方の連中は・・・

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勝負と人間洞察に長けた名将・野村克也の連載コラム。独自の視点から球界への提言を語る。

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