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野村克也の本格野球論

野村克也が語る「貧乏な子ども時代」

 

野球ができる体に育ったのが不思議なくらいの戦争前後


 前号で子ども時代の貧乏生活の話を書いてからというもの、次々あのころの情景がよみがえってくる。

 私の実家は、京都の片田舎・網野町(現・京丹後市)。日本海に面しており、冬の空はどんよりして積雪が多い。わが家は母子家庭の貧乏暮らしで、しょっちゅう引っ越しをしていた。借家住まいだったため、家賃が上がるたび、より賃料の安い家を探さざるを得なかったからだ。

戦後すぐ、日本はどこも貧乏暮らしだった/写真=Getty Images


 それにしても、最後に住んだわが家はひどいものだった。家自体が傾いているせいで、窓を閉めてもどこかしらに隙間が開いている。冬はその隙間に新聞紙を挟んで寝た。たまにそれを忘れて寝ると、夜中、雪が吹き込んできてポツポツ顔に当たり、起こされてしまう。あんな寒い中、よく生活してきたものだと思う。冬はこたつがあるといっても、炭を使った掘りごたつ。炭はそのうち消えてしまう。いつも足元が寒くて寒くて、しょうがなかった。

 われわれが子どものころは、戦争前後の食糧難。父の実家が熊野郡坂谷(現・京丹後市久美浜町)というところで、農家をしていた。小学生のころ、母親に「お前、悪いけどおじいちゃんのところへ行ってきて」と言われ、時々米をもらいに行った。周囲には川が流れているだけで何もない、家も7軒ほどしかない小さな集落。当然バスも電車もなくて、片道何時間もかけて歩いて行った。帰りは米を背中に担いで帰ってくるのだが、当時はヤミ米が禁止されていた時代。もうすぐわが町、というあたりに警官が隠れていて、何度か捕まった。

「おい、僕、ちょっと、ちょっと」

「うわあ!」

 ビックリはさせられたものの、米を没収されたことはなかった。「坂谷のおじいちゃんのところに行ってもらってきた」と言うと、逆に「偉いね」と褒められ、「気を付けて帰れよ」と見送ってもらえた。あの時代のことは、今の読者には想像もつかないだろう・・・

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勝負と人間洞察に長けた名将・野村克也の連載コラム。独自の視点から球界への提言を語る。

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