27年間という現役生活を、決して長いとは感じていないという。頑なに自分を貫き通し、ときには首脳陣とも衝突したが、これにも後悔の念はない。義理と人情を身上とし、“ジャイアン”のニックネームで親しまれた男が44歳にして「引退」の決断を下した。中日での10年に及ぶ下積みを経て確立した地位、二度にわたる戦力外通告、そして東北楽天所属時に直面した東日本大震災──。そのすべてが山崎武司の生きるエネルギーとなり、2013年、その物語はひとまず完結した。 取材・構成=富田庸 写真=BBM 10年で本塁打王も… ――27年の現役生活を終えました。
山崎 ひと言で言えば「27年もやったんかな」という思いです。僕の場合は遅咲きだったので、正味18年ぐらい。そんな長かったのかと。
――87年に中日に入団、レギュラーとなったのが10年目の96年です。
山崎 ファームにいたときはキャッチャーをやっており、「自分に適していないな」と、そんな葛藤の中で野球をやっていたんです。だから、嫌々やっている部分もあり、上達も遅れたのかなと思います。
▲山崎はドラフト2位で中日へ。左は日本ハムから1位指名を受けた系列の愛工大・西崎幸広
――その年に本塁打王に輝きます。
山崎 でも、何が調子良くて悪いのか分からない。行き当たりばったりで打っていたので、タチが悪かったですね。だからそれ以降は行ったり来たりの成績。もう、10回に1回しか打てないイメージでしたね。
――好不調の波をコントロールできなかったと。では、できるようになったのはいつぐらいでしょう。
山崎 それこそ楽天に入って以降ですね、自分のバッティングを手に入れることができたのは。それまでは、何を考えていいのかも分からなかった。
オリックスに行ったときも同じだったので、「もう、野球やめなアカンな」と思っていましたから。
――それをつかむきっかけとは。
山崎 田尾(安志)監督にバッティングをすべてバラしてもらい、「根本的に直せ」と言われたこと。そして、ドラゴンズでホームラン王を取れたとか、過去の栄光をすべて捨てられたことですね。プライドを捨てて一からやり直して、これでダメなら最後。田尾監督から言われたのは「しっかりためて、ボールを引きつけて打て」、簡単に言えばそういうことです。で、やっているうちに、自分の頭の中でイメージができ始めたんです。そこからですね。野村(克也)監督からは配球面、打撃についての考え方を教わって、そのおかげで07年にもう一度、ホームラン王(過去最高の43本塁打)を取ることができました。
▲92年8月19日の広島戦(ナゴヤ)でサヨナラ本塁打を放つ。山崎は飛び跳ねるようにホームへかえってきた
――長い現役生活の中で9人の指揮官と出会い、ときには激しく衝突することもありました。
山崎 自分が納得できないことは主張する。それで干されたり、トレードにも出されましたけど……。これだけワガママで
ヤンチャで、27年間続けられたのは僕ぐらいかな。これが唯一の自慢(笑)。でも、自分に目をかけてくれた方は絶対に裏切りません。嫌なヤツにはすぐそっぽ向いちゃうけど。義理と人情だけはしっかり持っていたつもりです。
▲トレードにより03年からオリックスのユニフォームに袖を通した。しかし2年目には出場機会が激減し、戦力外通告を受ける
――野村監督との出会いも大きかったのではないでしょうか。
山崎 野村監督には足を向けて寝れないし、一生、師匠でもありオヤジでもあります。野村監督のおかげでもう一度息を吹き返すことができましたし、何よりも人としての温かさを感じました。不調のときに・・・
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