週刊ベースボールONLINE

惜別球人2013

インタビュー・桧山進次郎 貴重な経験ばかり

 


阪神の選手としては最長となる22年間の在籍を誇った桧山進次郎が引退した。低迷期から強豪へと変貌するチームを主軸として体験してきた桧山。その経験はひと言では表せないモノだった。熱狂的な虎ファンの声援を背中に受け打席に立ち続け、晩年は「代打の神様」と言われる活躍をする。そんな山あり谷ありの桧山の22年間を振り返った。

文=取材・構成=椎屋博幸 写真=早浪章弘、前島 進、BBM

※本文の最後に桧山進次郎氏の直筆サイン色紙、DVD応募についてお知らせがございます

まずは体力がない……

▲92年ドラフト4位で阪神に入団(写真右下)。大学時代は「柔の桧山」として名をはせ、自信を持ってプロ入りしたのだが……



──現在「生え抜き選手」になる確率が低い時代になっています。

桧山 自分でも、よく長くできたなあ、という思いがありますね。入団した最初のキャンプで一軍の選手を見て「今の自分ではやっていけないな」とすぐに思いましたからね。アマチュア時代はトップだという変なプライドがあって、開幕からバリバリやれると思っていましたが、いきなりキャンプでその鼻をへし折られました。

――それはどの場面でしたか?

桧山 打撃練習のときです。当時は安芸(高知県)で一、二軍合同だったので、見学する機会があって、そのときですね。一軍のレギュラークラスは軽くバットを振って打球がスタンドまで届く。僕は目いっぱい振って2連続でスタンドに打てるかどうかだったので、完全に差を見せつけられました。

──そこからどのようにして気持ちを切り替えたのでしょうか

桧山 大学に入ったときも最初はレギュラー組と別のサブグラウンドで練習をしていた選手でした。そこからレギュラーをつかんだんですが、プロに入っても同じ環境。だから、一から作り直さないといけない、と思いましたね。でも野球が仕事になったということで、しっかりやらないと職場がなくなるという意識もあり、大学のときとは違う危機感でした。人生をかけた戦いでした。

――何が足りなかったのでしょう。

桧山 まずは体力ですね。何とか1年目のシーズンを終え、1年目のオフにはジムに行って体を鍛えようと思い立ち、兄に地元・京都の大きなジムを教えてもらいました。そこで仲田健というトレーナーと出会いました。

――体力と言っても持続系や瞬発系などさまざまです。

桧山 すべてにおいて改善しました。動けば動くほど体重が減る体質なのですが、そうなると打球の飛距離は出ず、ましてやバテてしまうのも早くなるので、まずはその部分から改善していきました。改善には2、3年かかりましたね。1年目は2人で試行錯誤しながら、そして、2年目のオフは地獄のトレーニングを敢行しました(笑)。その結果、3年目のキャンプではどんな練習をしてもバテずに過ごせました。シーズン中は彼とはなかなか会えないのですが、ノウハウを聞いて自分でトレーニングをやっていました。



――3年目からプロになった感覚でしょうか。

桧山 体力面ではですね。やはりプロでは技術より前に体力がないと何もついてこない。だからそこを変えないと何も始まらなかった。成績が出だしたのは4年目からですね。そこからはもう勢いでイケイケでした。

──チームは俺が引っ張るぞ、という感じだったのでしょうか。

桧山 若いころはそういうことは思わなかったかな。四番を打たせてもらってからですね、チームのことを考え始めたのは。

──桧山さんは弱い時代と強い時代の四番、ともに経験されています。

桧山 若かりしときの四番と選手会長をしながらの03年の四番とはプレッシャーは違いましたね。03年の場合は周りが見えていましたし、いろいろなプレッシャーも感じていました。でも若いときに四番の経験をさせてもらったのが、このときに生きていたのは事実ですね。

 弱いときの四番は、いろいろな叱咤激励があり、それを耐えられた。あのときは勢いで昇りつめた四番だったのですが、そこを上からガツンと押さえつけられ「調子に乗るなよ、桧山」と言われている感じでした。今振り返ればそれが良かったかな、と思います。

チームが活性化して

──その中でチームが勝っていく過程も経験しています。

桧山 野村(克也)監督が再生工場と言われるようなことをされ、チームが変わりつつありました。そこで選手が半分くらい入れ替わりました。その後、星野(仙一)さんが監督になられて、その数年で一気に顔ぶれが変わっていきました。

──勝つために何が必要ですか?

桧山 活性化ですかね。それにより自分自身が変わっていくのも分かりました。四番をはく奪、そしてレギュラーも奪われ、そこからもう一度はい上がって本当の力を付けていく経験とチームが変革していくのとが重なり合っていました。

──そして2度のリーグ優勝を経験されました。しかし日本一には……

桧山 そうですね。特に03年は印象に残っています。自分が選手会長をさせていただいて、阪神が強くなってきてのダイエーとの日本シリーズは、ファンとの一体感がすごかったのを覚えています。だから第7戦で負けたときの悔しさは、すごかった。試合が終わったときは放心状態でした。ここまでやってきた達成感と、厳しい戦いの中、あと一歩でつかみきれなかった悔しさと、でね。

▲03年のリーグ優勝は選手会長としてチームをけん引。また四番にも座るなどプロ野球人生で充実した年を迎えていた



──チームの変遷をすべて見てこられているわけですね。

桧山 もう貴重な経験ですよ。お金では買えない。ホンマに良い人生勉強をさせてもらった。これを今後生かせるかどうかは自分次第ではあるんですが(笑)…

この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。

まずは体験!登録後7日間無料

登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。

惜別球人

惜別球人

惜しまれながらユニフォームを脱いだ選手へのインタビュー。入団から引退までの軌跡をたどる。

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング