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プロ2年目に、開幕から抑えとして15勝5敗27セーブを挙げて新人王、最優秀救援投手、最高勝率のタイトルを獲得。95年のリーグ優勝、96年の日本一に貢献するなど、華々しいデビューを飾った。2002年オフには山崎武司との交換トレードで中日に移籍も、チーム事情から先発ローテーションに入り、12勝でカムバック賞を受賞、復活を印象付けた。現役最後を古巣オリックスで迎えた右腕は、二軍投手コーチとして新たな道を歩き出す。
取材・構成=谷上史朗 写真=石井愛子、BBM

背番号72で再始動


――まずは21年の現役生活お疲れさまでした。そして、コーチとして秋季キャンプをスタートさせた今の気分から教えてください。

平井 実は今日初めて72番の背番号が入ったユニフォームを着たんですけど、恥ずかしいですね。フェニックス・リーグからコーチとして動いてはいましたが、そのときはまだ間に合わなくて36番のユニフォームだったのが、72番になった途端かなり照れ臭い(笑)。

――引退の決断についても聞かせてください。今年は一軍では1試合の登板でしたが、ファームではリリーフで23試合に投げて防御率も1点台(1.17)。投げている試合も見せてもらいましたが、来季も十分現役で働けるレベルの球を投げていたと思います。

平井 自分でもまだできる自信はありました。ファームでも3点しか取られなかったんですけど、たまにネットで成績を見ても防御率も1点台。それも今年は少し肩に違和感を抱えながらこれだけ投げられた。しっかりメンテナンスすればもっと投げられる、という気持ちもありました。

――それが引退を決断するに至ったのは……。

平井 なかなか上から声もかからないし、一軍のチーム状態も良い。この感じだとまた戦力外になるんじゃないか、という思いが夏過ぎくらいから浮かぶようになっていました。そこへ高校時代の恩師、上甲正典監督(済美高、故人)を8月末に見舞って思うことがあったりしたところに、会社の方からコーチの話をいただき、決断しました。

――今年は一軍の投手陣の状態が非常に良く、中でも救援陣が鉄壁。この状況は大きく関係したでしょうね。

平井 それはありますね。ただ、上の救援陣を見て、冷静にあの中に割って入れるか、と言われたら厳しいというのが正直なところ。それと現役を終えるときはオリックスで、という気持ちがありました。育ててもらった球団であり、中日をクビになったときに声を掛けてもらった球団ですから。

――あらためて現役生活をスタートから振り返っていただきたいのですが、1993年のドラフト当時はダイエー志望だったとか。

平井 志望というか、ドラフト前はダイエーの3位指名でプロ入りと思っていました。逆指名の時代で1、2位は大学生で決まっていて3位で獲ると……。そんなふうにいろいろ聞いていました。

――それが、オリックスが1位指名。

平井 びっくりしたのと、僕の中ではダイエーしか頭になかったのでどうしようか、と。当時、ダイエーの関係者からは他球団から指名されたら1年間、野球留学のようなことをして次の年にドラフトで指名する方法もあると事前に聞いたりもしていました。

――89年にダイエーから指名された元木大介選手が野球浪人の翌年、意中の巨人へ入団したこともありました。ダイエーは当時、根本陸夫さんがフロントの中枢にいてさまざまな手法で選手を獲得していました。

平井 他球団から1、2位で指名されないように社会人からの内定ももらっていました。でも、ドラフトの夜、僕は九島という島から通っていたので1人でゆっくり考えたら、やっぱりプロでやりたい、と。一晩でオリックスへお世話になることを決めました。

▲高卒1年目でプロ初登板。94年9月10日の近鉄戦、9回裏無死満塁に4番手でマウンドに上がった



2年目に新人王&投手2冠を獲得


――宇和島東高3年のときは春夏連続で甲子園に出場。最速147キロも記録したストレートに自信を持ってのプロ入りでしたか。

平井 いや・・・

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