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惜別球人2019

赤松真人 引退惜別インタビュー 立ち向かう使命とともに 「(病気から戻って)皆、“すごいな”と言いますけど、僕なんてまだマシ。弱音を吐いたらもっとしんどい人に失礼でしょ」

 

FAの人的補償による移籍、語り継がれるスーパーキャッチ、そして衝撃のガン宣告――。どんな選手とも違う、波乱のプロ野球人生だった。ただ、だから気づけたこともある。そして、この世界で生き抜くため、一年一年を勝負してきたことは、どの選手とも違いはない。
取材・構成=藤本泰祐 写真=宮原和也(インタビュー)、BBM


移籍をチャンスと思って


「一軍で戦力になれないと意味がない」が引退を決めた理由だった。プロ入りは2005年、阪神へ。ファームでは好成績も、一軍の壁は高かった。そこに降ってわいたようなFAの人的補償でのトレード。それが転機になり、広島で一軍をつかんだ。

──引退試合で、1イニング守りましたが、センターのポジションに行くときはどんな気持ちでしたか。

赤松 不安と、「申し訳ない」という気持ちですね。引退する選手はみんなそうじゃないですか。もうやれないと思うから引退するのであって、それが一軍でプレーすることが申し訳ない。

──セレモニーのあいさつでは、ファンの方への感謝が伝わってきました。

赤松 そこは聞くほうがどう受け取るかなので、僕が判断することではないですけれども、僕はちゃんと感謝の気持ちを述べたつもりですので、それがよく伝わっていたならよかったです。

──引退を決められたのは。

赤松 まあもう、成績が物語っていますし、全然実績もない選手が、病気になって、そこから二軍でしか出てないので。事実上はクビですよ。僕の場合は、病気があったからここまで残していただいただけです。

──今年はそういう覚悟を持って臨まれた。

赤松 いやいや、それは僕だけじゃない。選手全員そうですよ。僕も今年、引退を決めましたけど、「今年一年でクビになるかもしれない」という思いは、毎年もう、ずっと一緒ですから。まあ決め手というのは、一軍でプレーできなくなったことですね。戦力にならないと意味がないですから。

──プロ入りは05年、阪神でした。ウエスタンでは1年目から首位打者、盗塁王など4冠を獲得します。

赤松 でも、一軍で出たかと言ったら出ていない(出場2試合)ので、自信にはならなかったですね。初出場で盗塁した記憶はありますが、今から思えばスタート、スピードの乗りもすべてダメでした。次の年の(一軍での)初スタメンでも4のゼロで、自分の実力はこんなもん、というのを思い知らされました。

──阪神でもうひとつ芽が出なかったところで、FAの人的補償で広島に移籍することになりました。

赤松 ここはやっぱり、切り替えて、チャンスと思ってやるしかない、と思いましたね。いいきっかけになるんですよね、トレードって。必要とされていくわけですから。「とにかく最初を頑張ろう」という気持ちで行ったので、カープでの最初の試合は・・・

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惜しまれながらユニフォームを脱いだ選手へのインタビュー。入団から引退までの軌跡をたどる。

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