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惜別球人2020

高橋朋己 引退惜別インタビュー 太く短く、濃い、プロ野球人生

 

輝いたのはわずか2年半だったが、その閃光は鮮烈だった。ライオンズ低迷期にクローザーを務めた高橋朋己。ケガが多く、思うようなプロ野球人生ではなかったが、濃い時間を過ごしたのは確か。その勇姿は永遠に西武ファンの記憶に刻まれる。
取材・構成=小林光男 写真=BBM

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11月4日、本拠地最終戦の引退セレモニーでファンに挨拶[代表撮影]


うれしい出会い


 2013年、西濃運輸からドラフト4位で西武に入団した高橋朋己。2年目の途中に守護神になると29セーブをマーク。翌年も22セーブを挙げた。だが、16年、開幕直後に左ヒジ痛で離脱すると、7月にトミー・ジョン手術を受けた。17年10月、約1年5カ月ぶりに一軍実戦復帰を果たすも、18年開幕早々に左肩を故障。早期復帰のメドが立たなかったことから、19年からは育成選手に。その後、再び一軍マウンドに立つことを目指したが、夢は叶わなかった。



──引退試合から1カ月が経過しました。

高橋 まだ例年のオフ期間という感覚なので……。来年、自主トレが始まったり、キャンプがスタートしたりしたら、選手ではない実感が湧くと思います。

──引退の理由は8月に打撃投手をした際、肩に強い痛みがあり、いい意味であきらめがついたということでしたが。

高橋 まず6月に左肩の肉離れを起こしたんです。自分の中では「次にやったら……」と覚悟していたんですけど、上の方とお話させていただいたときに「まだ開幕していないから、もう少し踏ん張ってみろ」と言われて「8月になっても復帰できなかったら一区切りつけます」と答えたんです。8月まで慎重に調整を進めたんですが結局、左肩がメチャクチャ痛くて。地方に行くなどいろいろな治療をやって、トレーニングや食生活も考えてやっても、こんなに痛いんだったらもう無理だ、と。本当にスパンと、あきらめがつきました。

──10月30日、イースタン・巨人戦(CAR3219)での引退試合には一軍のスタジアムDJ・リスケさんも駆けつけ、「タカハシ、トモミー! ナンバー43!」とアナウンス。登場曲であるE-girlsの『FollowMe』も流れました。

高橋 リスケさんで全部吹っ飛んじゃいました。一軍選手も試合があるのに見に来てくれて、涙でキャッチャーミットが見えませんでしたね。

──モタに対してマウンドから106キロ直球を投げ込み遊飛に仕留めました。

高橋 いきなり打ってきて、「エーッ」と思いましたけど(苦笑)、その瞬間にもう左肩が痛かったので良かったです。

10月30日にCAR3219で行われた引退試合[対巨人]で1球のみ投じ、野球人生の幕を閉じた[球団提供]


──リハビリ中に感じたことは?

高橋 野球ってゴールがないな、と。これが正解だと思ってやっていたことが、次の日には違っていたり。これで完成だと思っていたら、まだまだ先があったり。本当に先が見えない。だから、ドンドン自分をレベルアップさせることもできますし、そこで満足してゴールにすることもできる。でも、楽しかったですよ、リハビリも。いろいろと学べたので。復帰できなかったのは悔しかったですけど、リハビリには後悔がありません。

──ただ、ケガがなければ……という思いは。

高橋 それは常に思っていましたよ。特にトミー・ジョン手術明けですよね。2018年にすべてを懸けていましたけど、初登板で左肩をやってしまったので(3月31日、日本ハム戦)。病院に行って診断を受けたときに……死のうかと思いましたよね。

──引退会見で「(プロ野球人生は)短いけど、濃く、幸せな時間でした」とも言っていました。

高橋 やっぱり、いろいろな方々との出会いが本当に自分の中で大きかったですね。リハビリ中は支えにもなりました。後輩たちには自分の嫌な姿を見せたくないという気持ちがあって、リハビリを頑張れました。そういう出会いが、自分の中では濃いなと思いましたね。

──一番の出会いはありましたか。

高橋 順位はつけられないですけど、内海(内海哲也)さんに出会えたのはうれしかったです。純粋にファンの視点で(笑)。巨人でエースとして投げていた姿を見ていましたからね。僕は内海さんのマネをしてゼットを使い始めたので。その内海さんが、まさか自分の隣にいるようになるとは思いませんでしたから。

──内海投手から学んだことは?

高橋 あり過ぎます。技術はもちろんですけど、野球に対する気持ちも聞けたので。それはすごく良かったです。本当にいろいろためになる話を後輩たちにしてくれるんですよ。ずっとライオンズにいたんじゃないかと思うくらい。すごい先輩です。だって、あの内海哲也がみんなにすごく近いんですよ。僕からしたら、こんなにうれしいことはなかったです。

引退試合終了後、ナインの手によって胴上げされた[球団提供]


3者連続三振を胸に


 全盛期のピッチングは圧巻だった。球の出どころが見にくいフォームから繰り出されるストレートは球速以上の威力を発揮。「こだわりというか、ストレートしかまともに投げられない」と本人は言うが打者と真っ向勝負する投球スタイルで、特に14年は62回2/3で80奪三振。実に奪三振率は11.49を数えたが、自身の投球の信念もそこにある。



──8年間のプロ野球人生を振り返って、最初に頭に思い浮かぶのは?

高橋 岸(岸孝之。現楽天)さんとのキャッチボールですね。入団直後は左肩のリハビリを行っていたので、8月に初めて一軍に上がった練習のときです。田舎から出てきた、こんなピッチャーが「あの岸とキャッチボールしている……」と思ってしまったんですよね。

── プロ野球選手の自覚がまだ薄かった。

高橋 そうですね。2年目もそんな感じでしたよ。オープン戦で巨人と当たったときも、「YGマークのユニフォームが目の前にいる」と。僕は静岡出身で、子どものころは巨人戦ばかり見ていましたからね。本当に野球少年のような感覚でした。

──それが変わったのは?

高橋 2年目の後半くらいからですかね。クローザーをやり始めて、後半には「新人王の可能性も」と言われ始めて。3年目のときには抑え候補として新外国人(ミゲル・メヒア)が入団してきて。「絶対に負けたくない。クローザーは俺だ」と気合が入って、“プロ野球選手”ということを自覚し始めましたね。

──やはり、クローザーにこだわりがあった。

高橋 いや、そういうわけではないですけど。中継ぎも経験して、どちらも楽しかったですから。

2012年12月に行われた入団発表。右から2人目が高橋朋。同期には増田達至[中央下]、金子侑司[左から2人目]がいる


──リリーフとしてマウンドに上がり、心掛けていたことは?

高橋 3者連続三振です。先発の勝ちを消さない、チームが勝つ投球をするというのは大前提。それは絶対に心掛けないことで、あとは自分の目標を定めて全力で投げていましたね。

──それでは印象に残る投球は?

高橋 ペーニャの本塁打、それしかない。

──14年7月11日のオリックス戦(西武ドーム)ですね。

高橋 9回に同点弾を浴びたんです。先発の岡本(岡本洋介)さんの勝ちを消してしまって。初めてのことだったので、すごく悔し過ぎて覚えています。

──しかし翌日の同カード、延長10回にマウンドに上がり糸井嘉男、T─岡田、ペーニャと対戦して……。

高橋 3者連続三振を奪いました。すぐにやり返したかったので、この日はブルペンで「マウンドに上げてくれ」としか思っていなかったですね。当然、全員三振狙い。僕は器用ではないので、事前に「こうやって打ち取ろう」と考えてもできない。走者がいるときも三振を狙って、結果的にセカンドゴロでゲッツーという感じ。併殺を取りにいくことはありませんでした。

14年7月12日のオリックス戦[西武ドーム]では延長10回に登板して3者三振を奪った


──同じ三振でも、空振り、見逃しとありますが。

高橋 取れればどちらでもいいです。ああ、でも、あれは見たかったです。「卍」は生で体感してみたかった(笑)。

──敷田直人審判のストライクコール時のポーズですね。ほかに覚えている三振は?

高橋 陽岱鋼(当時日本ハム。現巨人)さんからの三振ですね(14年7月15日、旭川)。そのときに自己最速の152キロで空振り三振を奪ったんです。球速はずっと追い求めていましたから。雄星(菊池雄星。現マリナーズ)みたいに150キロ左腕って呼ばれたかったので。行けるなら、170、80キロを投げたかったですよ(笑)。

記録よりも記憶に


 昨オフ、育成選手として再契約する際、球団からあらためて「復活したときに、絶対に背番号43を着けてもらいたいから、空けて待っている」と言葉をかけられた。平良海馬はシーズン中、高橋朋の登場曲『FollowMe』を使用。もちろん、ファンも再び背番号43を着けてマウンドに上がる日を待っていた。本当に、すべての人に愛された選手だったのは間違いない。



──マウンドでは気迫十分でしたね。

高橋 田舎から出てきて、別に名門校出身でもないので、雑草魂がすごくありましたから。なめられるのがすごく嫌いだったので。余計に、そういう感じでマウンドには上がりましたね。

──腕が遅れて出てくる独特の投球フォームも印象深いです。

高橋 でも、変則と言われてイライラしましたよ(笑)。自分ではダルビッシュ(ダルビッシュ有。現カブス)さんとか、斉藤和巳(元ソフトバンク)さんや茂野吾郎(漫画『MAJOR』のキャラクター)のようにオーソドックスに投げていると思っていましたから。西濃運輸のときに「東海地区No.1変則左腕」と書かれて、「はあ?」と思いました。周囲にも「気持ち悪い投げ方」と言われて(苦笑)。

──同学年であり、ドラフト同期の増田達至投手とはいい関係のように見えました。

高橋 例えばチームが18、19年に連覇したとき、僕はリハビリをしていて素直に喜ぶことはできませんでした。でも、マスに関しては抑えれば抑えるほどうれしかったです。ただ単に、僕がマスを好きなんです。でも、僕がマスに寄って行くじゃないですか。その寄った分だけ、アイツは逃げる。マスには僕の気持ちは伝わっていないと思います(笑)。

──2人で8、9回も担っていました。

高橋 マスは本当にえげつないボールをほうるなとしか思っていなかったです。とにかくストレートが速い。あとは自分のルーティンを確立していて、すごいな、と。マスの後が一番投げたくない。だって、150キロを超える投手の後に140キロ台中盤の投手ですから。すごい変化球があるわけでもないし。マジで怖いですよ。マウンドに上がったら関係ないですけど、ブルペンで肩をつくっているときは緊張していました。

14年には日本代表にも選ばれて日米野球に出場。第2、5戦で1回ずつ投げて、いずれも無失点だった


──もし生まれ変わっても、リリーフ左腕になりたいですか。

高橋 野球をやって、プロに入って、どうなるか楽しみですね。リリーフ左腕になりたいというよりは、先発、中継ぎ、抑えのどこを任されるのか。やっぱり、僕もアマチュアまでは先発をずっとやっていましたからね。ライオンズに入って、「中継ぎで行くから」と言われて。最初は「中継ぎって何?」と思いましたもん。セーブの何がすごいのか、ホールドポイントもどうやったらつくのか、まったく知らなかったので。

──この記録を達成したかったというような思いは?

高橋 ないですよ。記録よりも記憶に残ればいいと思って、ずっと投げていたので。タイトルを獲得したかったわけでもないですし。リハビリ中もファンの方にずっと覚えてもらっていたことがすごくうれしかったです。

──復帰を待ちわびていたファンはすごく多かったです。

高橋 本当に「申し訳ございません」という気持ちだけです。待っていてくれたのに復帰できなかったので。リハビリ中も声を掛けてもらったりもして、またマウンドでの姿を見ていただきたいなと思っていたんですけど……。ファンの方からはいつも大きい声援を浴びて。特に1年目はピンチでマウンドに上がったときに、声援で背中を押されました。そのおかげで、マウンドで光り輝くことができたと思います。

── 本当に声援は力強かった。

高橋 トミー・ジョン手術明け、メットライフで投げたときはメッチャ緊張していたんです(17年10月2日、楽天戦)。でも、大声援を聞いたときに、足の震えが止まったんです。本当に緊張が飛んでいって。あのときもファンの方の力をすごく感じましたね。

── 今後はライオンズアカデミーのコーチとして活動していくということですが。

高橋 子どもたちの体を壊さない指導を心掛けたいですね。それは甘やかすということではなくて、こういうことをやれば壊れないということを教えていきたい。まだ体もできていないので、子どもたちに合ったトレーニングをさせたいですね。

──それは実体験から来る思いですね。

高橋 そうですね。あとは、普通だったら僕は去年でクビでもおかしくなかった。でも、球団は「43番を空けておくぞ」と言ってくれて、ここまで残していただきました。何もしてこなかったのに、引退試合もしていただいて、本当に感謝の気持ちしかありません。これからは精いっぱい、どのような形でもライオンズに尽くしていきたいと思います。

CLOSE-UP 印象に残っている打者・長谷川勇也(ソフトバンク)



「対戦した打者の中では長谷川さんが大嫌いでした。もう嫌でした。どうやったら抑えられるんだろうという思いしかなかったですね。クローザーをやっているときに、左腕の僕に対して右打者の代打で左打者の長谷川さんが出てきたこともありましたからね。それで、ことごとく打たれていたので。本当に苦手でしたね、長谷川さんは。

 研究はしていないです。出たとこ勝負。対策どおりに投げる制球力はなかったですし、テレビゲームの世界ではないから、ここからこう投げて、こう曲げてという感じはできない。とりあえず、出たとこ勝負でしたけど、気持ちだけで向かっていっていましたね」

■長谷川勇也との年度別対戦成績

チームメート&同級生の惜別コメント


切磋琢磨して練習に励んだ 増田達至投手
「一緒にライオンズに入団してから、同級生として切磋琢磨して練習に励んできたことが思い出されます。8年間、お疲れさまでした。ゆっくり休んでくださいね!」

高橋の分まで頑張る・木村文紀外野手
「僕自身は、高橋の復帰を望んでいました。リハビリを一生懸命頑張っていたのも知っていましたし。復帰が叶わなくて残念です。また同級生がひとり減ってしまうけど、高橋の分まで、今後の野球人生で僕が頑張ります。今までありがとう! ゆっくり体を休めてください。お疲れさま!」

記録メモ RECORDS&TITLES


[背番号]
43(2013〜18)123(2019〜20)

[主な記録]
■初出場=2013.8.15 vs.ソフトバンク(西武ドーム)
■初奪三振=2013.8.22 vs.ロッテ(QVCマリン)
■初ホールド=2013.8.31 vs.オリックス(西武ドーム)
■初勝利=2013.10.8 vs.ロッテ(西武ドーム)
■初セーブ=2014.4.19 vs.オリックス(西武ドーム)

引退セレモニーでは高橋朋の登場曲『Follow Me』を今季、使っていた平良海馬[左]から花束が贈られた[代表撮影]


PROFILE
たかはし・ともみ●1988年11月16日生まれ。静岡県出身。174cm85kg。左投左打。加藤学園高から岐阜聖徳学園大、西濃運輸を経て、2013年ドラフト4位で西武入団。1年目は前年9月に痛めた左肩のリハビリに費やしたが、夏場に一軍へ昇格すると24試合に投げ10ホールドをマーク。14年は29セーブ、15年は22セーブを挙げた。16年の開幕直後に左ヒジ痛で離脱し、7月にトミー・ジョン手術を受けた。17年終盤に復帰登板を果たすも、翌年開幕直後に左肩を故障。オフに育成選手となりリハビリを行うも復活できずに今季限りでユニフォームを脱いだ。
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