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惜別球人2021

鳥谷敬 引退インタビュー 明日を生きて「大学時代のあの日から、ずっと……」

 

いつだって迷いはない。出場機会を得るため、ライバルにチャンスを与えないため、自分と向き合い続けた現役生活。引退を含めて多くの決断を下す中でも、考えがブレることはなかった。明日を生きる強さが現役18年の根底にある。
取材・構成=鶴田成秀 写真=大泉謙也、BBM


周りの声は気にしない 試合に出ることが評価


 通算2000安打を放ち、遊撃手として歴代最長の667試合連続フルイニング出場を果たすなど、プロ18年で残した数々の大記録。「求め続けた数字」の理由が、野球選手としての生き様だ。

──引退会見で「プロになると決めたその日から数字を求め続けてきた」と言っていましたが、決断した“その日”は、何かきっかけがあったのでしょうか。

鳥谷 う〜ん、(早稲田)大学1年生のときは、まず大学生としてやっていこうという思いだったんです。その中で1年生の秋(季リーグ)が終わったくらいに4年生がプロに行かれたのが大きかったんですよね。(聖望学園)高校のときは、身近な先輩がプロには行っていないので、プロに行かれる先輩を見て「ここからプロに行く」という明確な姿を見れた。その先輩たちの打率であったり、ヒットの本数であったり、明確な数字が見れたので。高校時代はとにかくチームが勝つことを考えていたのが、大学に入って個人の目標もできたんです。これくらいの数字を残す人がプロに行くんだ、と。だから“その日”は、大学1年の秋以降。大学2年生のリーグ戦から数字を求めるようになったんですよね。

早大時代に下した「プロになる」という決断


──求めた数字とは。

鳥谷 まず打率3割ですよね。それが1つの目安で最低ライン。10〜12試合あるリーグ戦で、12〜15本のヒットが打てれば、打率3割をクリアできる。そこから出塁率を考え、さらにステップを上げてホームランや打点の数字を伸ばしていく。次々と数字を求めていったんです。

──求める前とあとでは、野球に対する考えに変化は生まれたのでしょうか。

鳥谷 それは数字だけではないというか。いろんなものに出合うタイミングが一緒だったんですよ。大学に入って1年間で体重が5〜6kg痩せて、大学の講義でもトレーニングの勉強もできたり。いろんなことが重なり、1年生のオフに体重を増やすためにトレーニングをして。そこから始めて、2年生の春(季リーグ戦)に数字で出て。こういう過程で数字が出てくるのかと感じ、いろんな発見とともに動いていったので。明確に「こう変わった」とか「あの経験があったから」というものはないんですよね。

──プロに入り、数字を求める中で、過程も変わっていったと思います。

鳥谷 大学とは年間の試合数、ユニフォームを着ている時間の長さが全然違いますからね。その部分では、プロ1年目は体力的にも精神的にも大変でした。常に人に見られながら野球をする難しさを感じてはいました。

──入団した阪神は注目度も高く「見られながら」を、より感じたと思います。

鳥谷 入団する前年(2003年)に優勝していたこともあり・・・

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惜しまれながらユニフォームを脱いだ選手へのインタビュー。入団から引退までの軌跡をたどる。

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