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西武・内海哲也 引退惜別インタビュー 完全燃焼の19年「本格派であることを追い求めなくなったら衰退してしまう」

 

野球に対して常に真摯に向き合ってきた。通算135勝を挙げた左腕だが、順風満帆な野球人生を歩んできたわけではない。うまくいかないこともあった。それでも、自分がやるべきことに集中。完全燃焼した19年のプロ野球人生だった。
取材・構成=小林光男 写真=高塩隆、BBM


チェンジアップを覚えて


 2004年、自由獲得枠で東京ガスから巨人に入団した内海。1年目は3試合の一軍登板に終わったが、2年目は26試合に登板した。先発は19試合。しかし、結果は4勝9敗、防御率5.04に終わった。ただ、堀内恒夫監督は内海に大いなる可能性を感じていた。

──入団時に当時の堀内監督に「お前は必ず成功する。通算200以上勝った俺が言うんだから間違いない」と言われたそうですね。

内海 とにかく、僕が心配するくらい使ってもらったので。2年目でしたが大したピッチングをしていないのに、まだ投げさせてくれるのか、と。「堀内さんは大丈夫かな」とこっちが心配になるくらい、我慢して使ってくださいました。もちろん、ありがたいことですし、結果として返さないといけないという気持ちはメチャクチャ持っていたんですけど、いかんせん技術がなくて。八方ふさがりという状況でした。そんな状況でも一軍のマウンドに上げてくれた恩はすごくあります。

──足らなかったのはどんな点でしたか。

内海 まずは経験が一番ですね。ただ、何回か二軍に落ちましたが、ほとんど一軍にいることができて雰囲気などを経験できたことが僕を飛躍的に成長させてくれました。あとは、2年目のシーズン中に高橋一三二軍監督にチェンジアップを教えてもらったことも転機に。真っすぐとカーブしかなくて投球の幅を広げるために「ちょっと投げてみろ」と言われて、ブルペンで投げたらすごくハマったんですよね。次の日、イースタンで投げる予定でしたが、「どうなってもいいから使え」と。実際に投げてみると、バッターも予期せぬボールだったのか、ほとんど内野ゴロで。「こんなに簡単にアウトが取れるんだ」とびっくりするくらいでした。そこから、僕のピッチングが変わりました。

──4年目の2007年には180奪三振でタイトルも獲得しました。

内海 当時は体もキレていましたし、変化球もキレていました。特にチェンジアップは全盛期でしたね。追い込んだら三振が取れる。逆に、チェンジアップが来ると思わせて真っすぐをズバッと投げ込むこともありました。とにかく、一番勝負できたボールはチェンジアップでした。

──引退会見での「決して速くない真っすぐでしたけど、本格派左腕と自分に言い聞かせて、真っすぐを生かせるような練習をしてきたつもりでした」という言葉が印象的でした。

内海 左投手って、子どものころから、本格派と言われ続けるんです。とにかく右バッターのインコースにクロスファイアを投げ込んでいかないとダメだ、と。刷り込まれているんですよね(笑)。それに、実際に高校時代は球が速かったので。プロに入ってからは周りの投手のほうが球速も速い。「これじゃあ苦しいな」「本格派にはほど遠いな」と思っていたんですけど、本格派であることを追い求めなくなったら衰退してしまう、と。やっぱり、左投手はクロスファイアをしっかり投げ切ってナンボだと思います。

──ワインドアップの投球フォームも本格派を連想させます。

内海 まあ、そうですね。でも、こだわりというか、それでずっと投げてきたので変えられない(笑)。変えて失敗する後悔よりも、貫いたほうがいいかな、と思っていましたね。

──2年連続2ケタ勝利を挙げた07年には、9月19日の阪神戦でボーグルソンから頭部死球を受けながらベンチに下がらなかったこともありました。

内海 あれはかすっただけなので。でも、まさか頭に来るとは思わなかったです。交代する選択肢はありませんでした。故意死球ではないですけど、そういうふうに見えたので。ボールが頭をかすって、パッと見た瞬間・・・

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惜しまれながらユニフォームを脱いだ選手へのインタビュー。入団から引退までの軌跡をたどる。

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