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惜別球人2023

木村文紀(元日本ハムほか) 引退惜別インタビュー “投打”を経験した喜び「自分の中で猶予は1、2年だなと思っていたので死に物狂いで練習しました」

 

投手として高校生ドラフト1巡目で入団し期待に応えたとは言い難いが、“1勝”という足跡は残した。野手に転向し、不断の努力で力を伸ばして連覇を果たしたチームの一員に名を連ねた。“投打”で過ごしたプロ17年間。それは幸せな日々だった。
取材・構成=小林光男 写真=BBM

古巣・西武戦で引退試合。試合後には両軍ナインの手によって胴上げされた


41番に対して裏切った


 ビジターで異例の引退試合だった。9月20日の西武戦(ベルーナ)。木村文紀日本ハムの四番・右翼で古巣との一戦にスタメン出場を果たす。4回の現役最終打席で初球、147キロ内角直球にバットを一閃。打球は左翼線ではずみ二塁打となった。その裏、左翼の守備位置に就いたところで新庄剛志監督が交代を告げた。温かな歓声に包まれながら、西武ナイン、日本ハムナインと握手やハグ。17年間のプロ野球人生にピリオドを打った。

――プロ最終打席、見事な二塁打でした。

木村 試合前に先発の渡邉勇太朗に「いつもどおりの対戦でいいから」と伝えていましたが“真剣勝負”をしてもらって。どんな形でもいいからヒットで終わりたいと思っていたので、最高の結果だったと思います。

――試合後に西武、日本ハムのナインの手によって胴上げもされました。

木村 野球人生の中で、胴上げをされたのは記憶にないですからね。それこそドラフトでライオンズに指名されたとき、高校の野球部のみんなに胴上げされて以来です。なんか、宙を舞っているときは高さを感じました(笑)。こんなに高く上がるんだ、と。言葉では表すのが難しい、何とも言えないうれしさでした。

――胴上げで始まり、胴上げで終われた野球人生だったんですね。

木村 いい言い方をすればそうですけどね(笑)。全員が全員、こんなことをやってもらえるとは限らないので。西武、日本ハムの両球団には、すごく感謝の気持ちがありますね。

引退試合では多くの声援をくれた西武ファンに感謝を込めて頭を下げた


――引退会見で「正直、自分の中でまだ現役にこだわってやりたい気持ちが少しはありました」と明かしていました。ユニフォームへの執着を振り払った一番の要因は?

木村 ファイターズから「来季は構想外」という話をされたとき、(西武の)渡辺(渡辺久信)GMに「もし日本ハムにそういうことを告げられたら一番最初に俺に連絡しろ」と言われたことを覚えていて。すぐに連絡をさせてもらったんです。自分の中ではおこがましいですけど、最後1年間二軍でもいいからライオンズのユニフォームを着て引退したいという気持ちがありました。ライオンズから始まったプロ野球人生でしたから。それを言う前に渡辺GMから「選手を続けるかどうか決めるのは自分。ただ、ライオンズは選手としてキムを獲る予定はない」という話をされて。他球団の話を聞くという考えが自分の中にはなかったので、引退を決めました。

――2007年に高校生ドラフト1巡目で入団。プロ入り時は投手でした。打者も経験した今、“木村文紀投手”を評すると?

木村 いろいろな投手と対戦してきて思うのは……。僕はコントロールに自信がなく、真っすぐで押すタイプでしたが、それだけでは無理。「俺の真っすぐで絶対通用する」と考え、自信を持ってバンバン投げていましたが、今思えばクソガキだったな、と(苦笑)。頭を使わずに能力だけで勝負していました。もっと考えろよ、と当時の自分に伝えたいですね。

――黄金時代に右腕エースとして活躍し、入団時は二軍監督、2年目からは一軍監督となった渡辺GMが現役時代に背負った「41」を着けていましたね。

木村 渡辺GMには気にして見てもらっていたというのは自分でも分かりましたし、たくさん怒られました(笑)。41番をもらったからといってプレッシャーがあったわけではないですが、会う人、会う人に「いい背番号をもらったね」と言われたので。やっぱり結果を出さないといけないと思っていました。41番に対しては裏切ってしまったかな、と感じています。

――唯一の勝利を2011年7月31日のオリックス戦(西武ドーム)で挙げています。

木村 まず、それを目標にしていたのでうれしかったですよ。でも・・・

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惜しまれながらユニフォームを脱いだ選手へのインタビュー。入団から引退までの軌跡をたどる。

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