人影まばらだった横浜スタジアムのマウンドで初勝利。球団史上初のCS進出、トミー・ジョン手術も経験した。そして晩年はファームリーグ参加球団での奮闘と、波乱に満ちた現役生活だった。それでも18年間に無駄な時間は一つもなかったと言い切れる。 取材・文=早川大介 写真=早川大介、BBM 
引退登板からまだ間もない10月上旬、田中は「練習を手伝おうと思って」と練習着姿でちゅ〜るスタジアムに現れた
NPBに戻るなら最後のチャンスだった
9月27日に本拠地・ちゅ〜るスタジアムにて行われた引退試合とセレモニーには、くふうハヤテのファンだけではなく、DeNAのファンも球場へと駆けつけた。8回に五番手で登板すると、最初の打者を一ゴロ、続く2人を空振り三振で登板を終えた。最後は高々と胴上げ。その高さは、自身のことだけではなく、若手たちへも気を配り、慕われてきた田中健二朗への愛情と比例しているようだった。 ――引退登板を終えてしばらく経ちましたが、今の心境はいかがですか。
田中 最初は引退試合に積極的ではなかったんですよ。話すのも得意じゃないし、静かに終わるほうが自分らしいのかなと思っていて。でも、いろんな方から「やったほうがいい」と言ってもらって、せっかく時間をつくってもらえるならと思い、やらせていただきました。今は本当にやって良かったと思いますし、まさかあれほど多くの方が来てくださるとは思っていなかった。人が集まってくれたのもうれしかったですけど、ファンの皆さんに「ありがとうございました」と直接伝えられる機会って、なかなかないじゃないですか。トークショーなどで伝えることはできても人数は限られていますし。球場なら来てくださった皆さんにしっかり思いを伝えられる。あの場を設けてもらえて本当に良かったですし、感謝しかありません。もし何もなくフェードアウトしていたら、後から「やっておけば良かった」と思っていたでしょうし、きっとちゃんと区切りがつけられなかったと思います。
――2023年にDeNAで区切りをつける選択肢もあったと思いますが、くふうハヤテで現役を続けた理由はなんだったのでしょうか。
田中 当時、くふうハヤテがファームに新規参加するということで、声を掛けていただいたときに「今ある選択肢の中でNPBに一番近いのはここだな」と思いました。とにかくNPBでやりたいという気持ちが強く、ベイスターズから通告を受けたときも「ここで終わる」という気持ちはなかったんです。華やかな場所で終わりたいとかよりも、とにかく「野球を続けたい」「できる限り高いレベルでやりたい」という思いだけでした。この2年間はチームのことも考えつつ、自分が立てた目標に向かって、プロ野球のときとはまた違う熱量で取り組めたと思います。
――その気持ちは、いつごろから?
田中 小さいころにプロ野球をテレビや球場で観て「ここでやりたい」と思ってしまってからですね。プロに入ってからも「一軍でやりたい」という気持ちはずっと変わりませんでした。華やかさとかではなく、ただそこを目指したい、そこで野球がしたいという思いだけでした。
――今年のハヤテでの成績を見ても、まだやれるのではと感じます。引退の理由は何だったのでしょうか。
田中 いろんな要素がありますが、年齢もありますし、そもそもここで長くやるつもりはありませんでした。ここに来た目的は「NPBに戻ること」。目標がなくなってまで野球を続けるのは自分らしくないと感じました。くふうハヤテの選手たちはドラフトやNPB復帰を目標に頑張っている中で、僕だけが「ただ野球がしたい」という理由で残るのは違うなと。それに、もし戻るなら、今年が最後のチャンスだと思っていました。年齢的にもこれ以上は厳しくなる。成績的にも今年が一番良くて、これ以上の成績を残すことは難しいと感じた。それが決断の理由です。
――プロ入り当初、横浜は低迷していた時期でした。そこからDeNAになり、チームが変わっていく過程をどう感じていましたか。
田中 僕が入ったのが08年で、4、5年目くらいまでは自分のことで精一杯でした。でも12年に親会社がDeNAに変わってチームの方針も大きく変わり、球団の努力もありお客さんがどんどん増えていった。その変化を間近で見られたのは本当に良かったと思います。初勝利を挙げた3年目は、まだ観客も少なく、当日券で入れるような時代で、ヤジも多かったですし(笑)。でもやっぱり、満員のスタジアムで投げられることは特別です。3万人の前で失敗すればため息、成功すれば大きな拍手。その緊張感がプレッシャーにもなり、成長にもつながりました。くふうハヤテの若い選手たちにも、どうせやるなら満員の球場でやってほしいですね。何万人もの前でいつもどおりにピッチングをする難しさ、プレッシャーを感じてほしい。もちろん、くふうハヤテのちゅ〜るスタジアムに来てくれるお客さんも本当にありがたいです。交通の便もよくないし、夏は暑い中、それでも応援に来てくださる。本当に感謝しています。
1年間戦ってこそのプロ野球選手
リリーフとしての揺るぎないポジションを確立したと思われた18年、思うような成績を残せずにいると、19年には左肘が悲鳴を上げ、トミー・ジョン手術を受けることになった。手術は無事に成功し、リハビリを本格的に始めようとしたときに、世間をコロナ禍が襲う。誰かに支えてもらいたい時期に、孤独な戦い。それをも乗り越えると、21年に復帰し、22年には完全復活を遂げた。 ――19年にはトミー・ジョン手術を
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