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河原宏誓[愛媛マンダリンパイレーツ・捕手] 独立リーガーの最後の挑戦

 

“ラストチャンス”を自認している25歳。それでも捕手という特殊なポジションが、その可能性をつないでいるとも言えそうだ。愛媛・済美高から大阪(現兵庫県)のNOMOベースボールクラブへ。そして地元へ戻り、“最後の戦い”を選択した河原宏誓。それぞれでの苦しい経験が、今の原動力となっている。
取材・文=富田庸、写真=BBM

さまざまな出会いにより捕手として成長した



忘れられないワンシーン


 歓喜の輪の中で、その感情を胸の内に押し留めることはできなかった。自らが主将として引っ張った愛媛マンダリンパイレーツ。9月27日、リーグチャンピオンシップで香川オリーブガイナーズを3勝2敗で下し、四国アイランドリーグplusで初めて年間王者に輝いたのだ。場所は松山坊っちゃんスタジアム。自身にとって因縁の地でもあった。

 8年前の2007年夏、河原宏誓は済美高の正捕手として今治西高との愛媛大会決勝戦に臨んでいた。6回表に今治西高が1点を先制するも、その裏に済美高がすぐさま同点に追いつく展開。スコアはそこから再び動かなくなった。迎えた延長11回表一死一塁。宏誓の野球人生の中で忘れられないものとなるワンシーンが訪れる。

「バッターは熊代選手(聖人、現埼玉西武)でした。ピッチャーにインコースを要求したんですが、それが甘く入り左中間を抜かれてしまった。その1点が決勝点となり、甲子園出場が消えました。なぜインコースだったのか……。アウトコースとか、もう少し慎重に攻めていれば。今なら、そう思えますね」

 幼少期に野球を始めたのは、3歳上の兄・佑輔さんの影響があったから。兄は済美高に進み、3年春には記録員としてベンチ入り。「やればできるは魔法の合い言葉」を現実のものとする、創部3年目でのセンバツ優勝の歓喜を味わっていた。その背中を追うように翌春、弟も済美高へ。

 投手として入部したものの、優勝効果もあり県内外から猛者が集っていた。頭角を現すのは困難な作業だった。そんな中、2年春に転機を迎える。「捕手をやってみろ」。上甲正典監督の一言だった・・・

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